新生存権裁判東京判決

原告 神馬幸悦

 

2024年6月13日(木)生活保護受給減額処分の取り消しや損害賠償を求めた訴訟(新生存権裁判東京)の判決がありました。篠田裁判長は「国の判断には裁量権の逸脱、乱用がある」として処分を取り消しました。(賠償請求は棄却)

判決後私は司法記者クラブでの記者会見に出席しました。記者からは、減額によってどういう影響が出たか問われ、私は食費を3分の1削ったり、集会へ参加する交通費が不足して困ったりしたと答えました。6年にも及んだ裁判の進行中にさんきゅうハウスの原告仲間が何人か亡くなり辛い思いもしましたが勝訴の報告ができほっとしました。

この裁判を通じて意見陳述や署名集め&提出、街頭宣伝、厚生労働大臣への要請書提出など様々な体験ができ勉強になりました。

 

裁判の終わりに大変異例の事ではありますが、篠田裁判長より意見表明がありました。社会が未来に向かって「下向きのベクトルではなく、上向きのベクトルに進まなければいけない」と指摘。そのために行政が担う役割があると述べました。またそうした社会にするため、皆さんが一体となって取り組んでほしいと語りました。

今回の訴訟を含めて地裁段階では原告が17勝11敗と勝ち越し。原告弁護団の宇都宮健児弁護士は行政訴訟では原告が勝訴することが難しく、これほど勝つことは異例だと述べました。

なお原告、被告共に上告し場所を東京高裁に移して裁判は続くと思われますが引き続きのご支援をいただけますよう宜しくお願い致します。

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投稿・学会に行ってきました

みなみ 

 

私は、40代の女性の精神障害者です。かかりつけの精神科医から、「今度、日本精神神経学会で、あなたの症例を、他の患者さん2~3人の症例と混ぜて発表します。見に来ませんか?」と、誘われました。

 第120回日本精神神経学会学術総会は、北海道で開催されるとのことでした。遠かったので迷いましたが、行くことにしました。

 学会の入り口には立派な看板が立っていて、キッチンカーが7台ぐらい来ていました。受付で精神障害者手帳を提示すると、千円で参加することができました。

 かかりつけ医の発表ですが、男性の症例ということになっていて、どこが私の症例なのかさっぱりわかりませんでした。

 私は、患者が自分の意志で、自分の症例発表をすることができるべきと思っています。「ここは公にするが、ここは隠したい」というように、調整できるようにするべきです。

 あと、医者と患者とで、問題意識がずれていたりします。医師だと問題点Xが気になり、患者だと問題点Yが気になるということがあるはずです。症例報告は、たくさんされたほうが、病気に対する理解が深まると思います・・・

 

<全文は、おりふれ通信434号(2024年7月号)でお読み下さい。ご購読(年間3,000円です)のお申し込みは、本ブログ右下のメール送信で。または FAX042-524-7566 立川市錦町1-5-1-201 おりふれの会へ>

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『日ノ岡荘みんなの部屋の物語』(千書房刊)の想い

前進友の会やすらぎの里作業所 江端一起

 【遺族会】ダト想うんです、、、【遺族会】になっちゃうんだと想うんです、、、、長く患者会を開き続けていると、、、何時しか【遺族会】に為るのだと、、家族会の皆さんも、、兄弟姉妹の皆さんも、、、ソウなんですよ、長くヤッテいると、会としても個人としても、、何時しか【遺族会】や【遺族】に為っていくんですよね、、ソレがゲンジツだと想うんです、、だから、、生き延びちゃった者たちは、、生き延びれなかったなかまたちの想いを語り継ぐ意味と云うか義務と云うかが出来ちゃうんじゃないかと想うんです。ナンと云うか、病者本人も家族も兄弟姉妹も、キーサントモダチも、スタッフダチンコも、会としても個人としても、遺族会や遺族になって、想いを語り継ぐ、そういう場が患者会であれ交流の場であれナニ化であれ、会報や通信やであれ、交流広場であれ、繰り言であれ、独語であれ、絶対に必要なんじゃないかなと想うんです。出来たら、、なかま達と共にがイイのだけれど、、、この『日ノ岡荘みんなの部屋の物語』も、少しは、ソウ為っていたらいいのだけれど、、、如何かな、、、

 前進友の会は、1976年設立ですから再来年で50年に為るんデスよね、、、、若くして亡くなったなかま達、、自殺で亡くなっていったなかま達、、、大往生を遂げられたなかま達、、精神病院内で一度も退院することなく亡くなっていったなかま達、、ガンで亡くなっていったなかま達、、、、突然に亡くなっていったなかま達、、、、総合病院と精神病院を行ったり来たりしているうちに亡くなっていったなかま達、、たくさんのなかま達が亡くなっていきました、、看おくって生き続けているなかま達、、、遺さなきゃ、、残さなきゃと想ってきました、、、今、、ホッとしています、、、みんなの部屋のなかま達の声や息遣いや哄笑や泣き笑いを、、少しは残せました、、、レクや食事会や与太話や、カレーの出来栄えなどを、便所から出られなくなったことも、包丁で追いかけまわされたことも、、、、原稿は書き溜めてきたモノが手元にありました、、たくさん、たくさん、ね、でも、、実は発表する気はなかったのです。やっぱりとてもとても、シンドカッタ、ツラかったんですよ、、、、ある方の強いおすすめがあったからこそ、この本は出版出来ました。感謝しています・・・

 

<全文は、おりふれ通信433号(2024年6月号)でお読み下さい。ご購読(年間3,000円です)のお申し込みは、本ブログ右下のメール送信で。または FAX042-524-7566 立川市錦町1-5-1-201 おりふれの会へ>

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学会に初参加して演題発表を体験!

飯田明楽 

 

私は若輩者の20代当事者である。今回、学会に初めて参加し、ジャーナリストの月崎時央氏と向精神薬が原因で起きた自分の体験について共同発表を行った。

奇しくも私の祖父が住む神奈川県横須賀の地で、第66回日本病院・地域精神医学会総会神奈川大会は開催された。今学会のテーマは『生きる基軸を求めて〜基本に立ち返っての提言〜』である。プログラムには医師に限らず、看護師・精神保健福祉士・当事者・弁護士と多種多様な人々による演題が掲載されている。

身体拘束に関する演題を聞いて

学会初日、私は一般演題①のテーマ『身体拘束・人権』の部屋に参加した。

身体拘束や人権にまつわる演題発表では、実際に病院で身体拘束を全廃にした結果と研究、車椅子ベルトの課題について、精神保健支援弁護士制度を活用した患者の権利擁護の報告などが発表された。身体拘束を全廃した研究では、現場スタッフから改めて身体拘束について検討した結果、否定的な意見が多く見られたそうだ。

実は私の祖父は家族が身体拘束を受けている場面に立ち合い、心に傷を被った1人だ。権力ある著名な精神科医がメディアで拘束について賛成的な意見を述べていた事は記憶に新しい。しかし身体拘束は、患者の人権と心を傷つけるのはもちろん、医療現場の医師や看護師だけでなく、祖父のように当事者の家族など、関わる人の心に傷やしこりを残すものだ。

私は当事者として、患者の人権を大切にしようと取り組む多くの発表者の姿勢に希望の光を見出した・・・

 

<以下、全文は、おりふれ通信429号(2024年1月号)でお読み下さい。ご購読(年間2,000円です)のお申し込みは、本ブログ右下のメール送信で。または FAX042-524-7566 立川市錦町1-5-1-201 おりふれの会へ>

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精神国賠第13回口頭弁論

当事者 小峰盛光

20231024()のお話をしたいと思います。原告の伊藤時男さんと待ち合わせをして東京地方裁判所に電車で向かいました。電車の中で伊藤時男さんは「講演の依頼がたくさんきている」、「絵の個展もやる」と、忙しい日々を送ってるみたいでした。デイケアにも行っていて、「病院にいたときは何もできなかったから今が一番幸せだ」と言ってました。   

1時間前に裁判所に着き、支援者の方々とロビーで話されました。時間になり開廷して、少し進行すると裁判官が一度後に下がり、裁判官3人で話し合うために休廷になりました。が、すぐ終わりました。傍聴は62名で、103号法廷は98名傍聴できるのであと36名、どうにか次回は満員にしたいと思いました。

報告会会場に移動して、長谷川弁護団長から経緯の説明を受けました。今回は、前回原告側から提出した準備書面に被告が反論の書面を提出しました。国の反論は、・指定医制度や精神医療審査会などの制度があるので不作為にはあたらない・憲法上の権利侵害は明白ではない。国賠法上の違法性は認められない・原告側から提出した証言の個別の事と国の責任は別 というのが大まかな趣旨でした。法律のたてつけ論に終始し、具体的な制度上の問題点には踏み込まないというもの。

原告側と論点がかみあっていないため準備書面を作成し提出しました。被告が原告の主張に対して真摯に向きあわず、従前の主張を繰り返しているので裁判所において争点の整理をして双方の主張をかみあうようにしてほしいと主張したうえで被告側の主張の問題点を指摘したもの。裁判所は争点整理の必要性はない。原告側が言いたいことや証人尋問が必要であれば人証申請・証人尋問の申請をしてほしいということでした。結審に向けて裁判所が動き出したようです。

この間の裁判の過程を受ける形で医療保護入院は違憲の可能性があると書いた研究者がいるのでそれも書面で出したとのこと。医療保護入院に何の疑問を持たなかった憲法学者などが少しずつ疑問を持つようになってきているそうです。

弁護団は今のところ福祉関係者、医師、憲法学者、原告の証人申請を考えているとのこと。次回口頭弁論で、その可否や何人まで証人尋問を行なうかを決めることになります。というのが報告会の内容でした(報告会の内容は精神国賠のホームページを引用しています)。報告会参加者は70名でした。

そのあと新橋のカラオケ店に10数名で行き、カラオケをしました。伊藤時男さんは三橋美智也とか五木ひろしの歌を歌ってました。みんなで盛り上がり新橋で解散しました。

 

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さんきゅう秋祭りと新生存権裁判東京

さんきゅうハウス 神馬幸悦

 

私は現在週3回の人工透析を受けているため、どうしても病院中心の生活にならざるを得ず、普通に働くことはできません。そこで、立川市にある「さんきゅうハウス」という生活困窮者に住居や食事提供等のサポートをしているNPO 法人で働いています。

そこで毎週土曜日、お弁当(他にレトルト食品、お菓子、パン、飲み物)を配布しています。毎回20数食から多い日は30食出ます。

 

10月21(土)11時から15時にてさんきゅう秋祭りが行われました。焼きそば、バーベキュー、コーヒー、ジュース等を提供しました。最後は、恒例のビンゴゲームを行いました。お天気にも恵まれ、スタッフとお客様合わせて5 3人の参加者。またカンパも30,000円を超えるほどいただきました。本当にありがとうございました。

予定していたにもかかわらず相談に来れなかった方がいたらしいのですが、逆に予定してなかった新たな相談者も来たらしいです(申し訳ございませんが、神馬はこの日体調悪くて欠席しました)。いずれにしても相談者は毎月絶えることなく何人か訪れてくる状況が続いております。これから年末年始に向けて生活がいっそう厳しくなる人が来るかもしれませんので、みんなで対応したいと思ってます。

 

10月16日に行われた新生存権裁判東京で神馬は意見陳述をしました。

この裁判は、年内12月121330分より最後の裁判(結審)が東京地裁103法廷室で行われ、判決の日が決まります。

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モーツァルトを初めて聞いた日 ―劣悪?な病院で働いている皆さんへ

根間 あさ子

 

ある日、Oさんは病棟のデイルームに寮から自分のステレオを持ち込んだ。12歳の私がベートーベンもモーツァルトも知らないと聞いて、自分の大切なレコードを聞かせようとしてくれたのだ。彼がレコードを扱う手つきから、それをとても大切にしていることがわかった。その大切なものを病棟に持ち込んで、クラシック音楽など流れたこともない場所で演奏が始まった。私は初めて聞くモーツァルトの音楽に心震わせ、と書きたいところだが、その日どんな音楽を聞いたのか全く記憶はない。その前日に、私はいつものようにOさんが翌朝の薬をセットしているそばでおしゃべりをしていた。その時にクラシック音楽について全く無知なことを知られたのだろう。当時のかさばる図体のステレオを、寮から二階の開放病棟までどうやって運んだものか。私は初めて聞くクラシック音楽は良く分からぬながらも、Oさんがレコードをステレオにセットする手つきからとても大切なものを扱っていると感じOさんがそれらを大事にしていることが良く分かったし、それを私に聞かせようと奮闘してくれていることが嬉しかった。だから半世紀以上前のその記憶が今も私の心を温かくしてくれる。

私の二回目で最悪の入院生活(1960年代の私立単科の精神病院です)の中で唯一の良き思い出は、このOさんと過ごした時間である。彼は病院にとなりあっていた職員寮に住まいしていた。看護学校に通いながら看護人(男性の看護助手をこのように呼んだ)をしていたのか、それとも全く別の勉強をしていたのかは知らないが確か学生だったように思う。佐渡島から上京してきて、私と同じ年頃の妹がいるといっていた。私は彼が夜勤の時に薬をそろえたり作業しているそばで彼の話を聞くのが好きだった。彼も病棟中で一番幼い、故郷の妹と同じ年頃の私を不憫に思い心に掛けてくれたのかもしれない。詰所(ナースステーション)に患者が入るのはご法度だったかも知れないが、私は幾度となく彼の夜勤の時には詰所に入り込んでいたように記憶する。

この記憶を書くことで私が伝えたいことは、どんな過酷な環境の中にいたとしても、人の心ある振る舞いは伝わるし、人を救うことが出来るということだ。あなたが酷いところで働いていたとしても、あなたの心ある振る舞いはきっと患者さんたちに伝わるに違いないということだ。諦めずに目の前の患者さんに対して心を尽くして欲しいと心から願う。

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投稿 患者会・患者自治会の必要性 その4(最終回)

京都市伏見区前進友の会やすらぎの里作業所 入退院5回

コテコテの躁うつ病 キーさん革命の鬼えばっち 江端一起

 

 オレだけ生き延びてしまった、、、、あの信州の精神病院からオレだけが生き延びてしまった、しかもあの病院から運よく生きて出られた患者の中で、『前進友の会やすらぎの里』と出会うことが出来て、またもや、運よくオレだけが『キーサンとしての生きがい』を得て『キーサンの人間関係』の中でオレだけが『生きている実感』を感じているのなら、ソレは恐るべきことである、とソウ想う。許されることではないと想う。だって、えばっちだって『病者運動ボスの活動家』ナンだから、、、

 『当事者運動家』諸氏よ『当事者活動家』諸氏よ『国家資格専門職人権擁護活動家』諸氏よ、それでいいのか、、、本当にそれでいいのか、、、イマの今時にこそ『ピアカウンセラー養成講座』『ピアサポーター養成講座』を批判し尽さなければならない、なんとなれば、このママでは障害者間に最大の『生きがいの格差』をもたらすであろうから、、、すまし顔の猿のようにスーツを着て人前で得々と法律のハナシを語る『当事者』ほど、この『生きる喜びの格差』を意識的に拡げる存在はなかろうに、、、『パラリンピック』を批判し尽さなければならない意味がココにある。『パラリンピック金メダリスト』ほど障害者間の『生きがいの格差』を見せつける存在はなかろうから、、、とすると、精神病患者にとっての、或いは『所謂言うところの発達障害者』にとっての『パラリンピック金メダリスト』とは、ドンな存在であろうか、、、そう、みなさん御想像のとうりであろう、、、

 ソウなのである、すなわち、自分の活動と論文と国会と外国旅行のために、自分が味わったこともないような、精神病院のコトや精神診療所、閉鎖病棟や保護室や五点張りや電パチや、看護士精神医の暴力や、クスリ飲んでない奴がナンで大量投薬や大量減薬の害を言いつのって、まるで自分がやられたかのように喋る、これは、もはや同じ『病者なかま』を『利用』し尽した『生きがいの搾取』であろう。そう、もはや、『無仁義病者運動ボス』の『利用』し尽くす『オモタい病者なかま』への『生きがいの搾取』である。コレはひょっとすると『良心的一所懸命のスタッフ』達の『モノ言わぬ通所者』『依存してくる利用者』側への『必要とされる実感の格差拡大』よりも、悪辣極まりないことかもしれないと、想うのである。だって『酷な』言い方かもしらぬが『一所懸命やる良心的スタッフ』は確かに、病者のセーカツを支えてはくれてイルのだから、、、特にPSW系は、実質のセーカツの糧を入れ込んでくれるわけなのだから、、、

 とすると、『無仁義病者運動ボス』の『利用』し尽くした挙句の『オモタい病者なかま』への『生きがいの搾取』とは、、もはや『生きる実感いのちそのものの盗人』であるとシカ言いようがない、、、倫理的に許されることなのであろうか、、、酷な言い方ではあろうが、『精神病者解放運動の本筋』がコレに為ってシマッてきたのが、精神の当事者運動の不幸の一つだと想うのだが、ドウであろうか、、そして遂には『無仁義病者運動ボス生きがい搾取者』『精神病患者の生きる実感盗人』とシカ言いようのないような者までも登場である。コンな者までもが、登場したのである。怖ろしいことだ。しかも、しかもである、『被害』の実態を公表し批判することも出来なくなり掛かっている、コンなていたらくだから、とにもかくにも『活動家は喋らない方がいいに決まっている』と叫びたくなる。

 

 だから、『選ばなければならない』と想うのである。『選べる』状況がセッカクにイマの今時に出来得かかっているのであれば、、、、もちろん、『選び得る』状況が事態が出来得ていることが前提なのである。だから『イマの今時の良心的素晴らしい福祉』の場でこそ、、、なのだけれど、、、特に特に『支援者』はドウするのか考えないといけない、福祉の大学なんかでは教えてくれないのだから、、、『契約関係』のママでいいのか『人間関係』を目指さなくても良いのか、『サービスの供給専門職』のママで『サービス提供者』のママでいいんですか、、、『スタッフダチンコ』を目指さなくても出来てしまえるのか、、、『する側』『される側』を踏んまえた上で、で考えてもらいたいと、そう想う。そう、キビし過ぎるかもしれない、だから、ココは強くは言えない、、、でもチョットだけ、、『利用者』としては『サービスの受益者』のママでいいのかい、『キーサントモダチ』を目指さないのかい、『群れて』『支え合って』『助け合って』『キーサントモダチ』を目指さないのかい、、、『問い詰める』ようなことに為ってはゼッタイにダメだ、だって、『自分の意向』を聞いてはもらえなかった人生なんだから、、だから、ゴメンよ『問い詰める』ようなことになってはいけないゼッタイに、、、したらアカンとそう想う、、でもでも『患者自治会』を目指して『キーサントモダチ』に為りませんかと呼びかけ続けたい、、、『問い詰める』ようなことに為ってシマワないように、、、『サービスの受給者』のママで『サービスの受益者』のママで『サービスの利用者』のママで『サービスの量と質の奪い合い』のママでいいんですか、、、

 だがしかし、でも、一方で、ココは、再度再度大声で叫んでおこう、特に特には特に『病者運動ボス』はドウするのか『パラリンピックの金メダリスト』に為ろうとするのか『キーサントモダチ』を目指そうとするのか、、、ともあれ『無仁義病者運動ボス生きがいの搾取者』『精神病患者の生きる実感盗人』は在り得ない外道の所行と想うが、、、

 

<以下、全文は、おりふれ通信425号(2023年9月号)でお読み下さい。ご購読(年間2,000円です)のお申し込みは、本ブログ右下のメール送信で。または FAX042-524-7566 立川市錦町1-5-1-201 おりふれの会へ>

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伊藤時男さんの精神国賠傍聴記

根間 あさ子

 

伊藤時男さんの精神医療国家賠償請求裁判の第12回口頭弁論が725日に東京地裁にて行われました。 

 私は、開廷時刻の10分前位に着いたのですが、とても多くの人がロビーに集まっていました。いつにも増した熱気を感じました。間もなくいつもの103号法廷に入りました。100人入れる傍聴席は空席がとても少なくて、人数が数えにくいくらいでした。精神国賠研のホームページによると傍聴者は約80名、裁判後の報告集会の参加数がZOOM参加も含めて74名でした。酷暑の中、本当に多くの方々が今回の裁判に駆けつけて下さったのです。裁判内容については精神国賠研のホームページをご覧ください。次回、第13回口頭弁論は1024日火曜日の16時開廷です。また、多くの方々の参集を待ちます。

 さて、報告会では今回も様々なお立場の方々がそれぞれの思いを込めて発言されました。裁判の本筋、伊藤時男さんは国の精神医療施策の不作為の結果、長期の入院を強いられたもので日本国憲法に違反している、という主張とは少し離れたものも決しておろそかにされず、真摯に受け止められて、互いに傾聴し合うのです。毎回、様々な今の精神科医療の問題点が体験者の切実な思いとともに話され、それぞれに胸を打つ言葉にあふれています。そしてそれを聴くその場の皆さんが、発言者一人ひとりの思いを共有するのです。参集して下さる皆さんのこの国の精神科医療を何とかしてまともな、真に「医療」と呼べるものに変えていきたいという熱意が伝わってきます。

 今回は、例えば、不適切な薬物治療による酷い副作用に苦しむ人、ピアサポートは活動する人の善意に任されていて経済的な基盤を持っていないこと、などが語られ、それに対して伊藤さんがご自身の体験を語り返し、多くの精神医療を受けている人々の悩みや苦しみが他人事でなく共感を持って受け止められる場となるのです。私はこの報告会や毎月の月例会で語られる一つひとつの切実なエピソードを多くの人々が共有して下さることで、私自身が体験した傷もまた、その場で癒やされていくように感じるのです・・・

 

<以下、全文は、おりふれ通信424号(2023年8月号)でお読み下さい。ご購読(年間2,000円です)のお申し込みは、本ブログ右下のメール送信で。または FAX042-524-7566 立川市錦町1-5-1-201 おりふれの会へ>

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投稿 患者会・患者自治会の必要性 その4(中)

京都市伏見区前進友の会やすらぎの里作業所 入退院5回

コテコテの躁うつ病 キーさん革命の鬼えばっち 江端一起

  『必要とされている実感』がなければ、『必要とされる場』が無いと、ヒトは生きてはいけない。だから、『役割』を見つける。『必要とされる関係』をこしらえていく。『支え合って生きる』と云う『役割』を自分たちでこしらえていく。それぞれが必要とされる場を自分たちでこしらえていく。必要とされている実感と人間関係を場を共にしながらこしらえていく。『支え合って生きる』だからコソのキーサントモダチなのである。ヒトは、特に弱いものは『群れ』ることでしか生きてはいけない。ヒトは一人では生きてはいけないから。『本物の生きがい』が必要だから。『本物の生きる実感』を求めるのだから。『人である限り生きなければ』ならないのだから、、、『よりよく生きなければ』ならないのだから、、、『右肩上がり』ではなく『社会復帰路線』『働く権利』ではない、の、だけれども、そう『よりよく生きて』いきたいのである。ソレを奪ってほしくないのである。『本物の生きがい』を見い出して『生きていきたい』のである。

 でも、だからこそ、『一所懸命ガンバッているスタッフ』側からの「今、これだけ充実しかかっている精神福祉の中で、私たちの実践の中に、今何故にココに必要があるのか」と云う問いに答えなければならなくなった、、、、、生き延びて生き延びて生き延びて『やっとこさココにたどり着いて優しいスタッフに囲まれて生保も年金も貰えるようになったし、訪看の看護婦さんもヘルパーさんも来てくれるようになって優しいし、ご飯も作ってくれるし、もうコレでいいやと感じている通所者利用者』側からの「今何故にココに必要なのか」と云う問いに答えなければならなくなった、、、

 そう、『素晴らしいよくやるスタッフ』と『通所者』が『福祉サービスの供給者受益者』に為ってしまった時に、『スタッフ側の愛とやりがい』に囲まれてしまった時に、取り返しのつかないようなことがおきてしまうのである。『通所者』『利用者』側の病者にナニが惹起されてしまうのか、ナンと「前進友の会やすらぎの里作業所みんなの部屋」でナニがひきおこされてシマッタのか、えばっちは、見てきたからなのである、、、病者間に『支え合って生きる』ではなく『足の引っ張り合い』がおきてしまうのである。そう『スタッフ側の供給するサービスの質と量の奪い合い』が始まってしまうのである。

 そしてついにはそう、まるでまるで『ホストクラブのホストの奪い合い』か『キャバクラのお姉さんの奪い合い』のような『福祉サービスの量と質の奪い合い』のヨウなコトに為ってくるのである。『キーサントモダチ』ゆえの『ニクマン』とは似ても似つかないような、、、それでいてスタッフ側は、『やりがい』『生きがい』『働きがい』にまみれて亢進につぐ昂進のあげくに『燃え尽き』の様になりながら、ついには、『依存されることに依存』していく仕儀と為る。詳しくはもうココでは語れない、、、もう嫌なのだ。シンドイのだ。そう、だから、コンな場合に備えて、『福祉サービスの提供の公平性と平等性』を担保せんがためにこそ、『専門職能性』『国家資格』『契約関係』『適正化委員会』『第三者機関』が必要に為ってくるのである。それと、ありとあらゆる『ピアサポート』ダノ『オルタナティヴ』ダノ『アドヴォカシー』ダノ『オープンダイアローグ』ダノ『ノーマライゼーション』ダノ『ラップ』ダノ『アクト』ダノ『リカバリー』ダノと『片カナ用語的おためごかし』が必要に為ってくるのである。ナニかが、決定的に欠如しているのが分からないのか、、、

 逆だ、逆に為らないと、タイヘンなことに為ってしまう。ナニもかもが失われてしまうんだ。『運動的積み上げ』すらも、すらも、失われてシマウコトに為るのに、ソコに気が付かないのか、、、『制度』ダケが『法律』ダケが立派に為って、、、、『本物の人間関係』『本物のトモダチ』を『本物の人と人との本物の関係』の中で、『本物のはたらきがい』を、、『本物の生きがい』を、、、なかまとともに、見い出そうとするジッサイのセーカツのなかでしか、、、『本物の生きることそのもの』を、、、『本物の生きる喜び』を、、、ああああぁぁぁドウ言えばいいのか、、だから、「キーサンセーカツ列伝」で書き綴ったような、ボクたちもそリゃあーーイロイロと、ホンとイロイロはアルんだけれど、アリながらだけれども、コンなカンジの『雰囲気』の『与太話』や『レク』や『旅行』や『関係性』や『ニクマン』や『食事会』や『生きざま』が『死にざま』が『トモダチがい』がみなさんの場にアリますか、と言わなければならないのか、、、こんな『与太話』しながら『ニクマン』まみれになりながら『愉しく』ながらも『シンドく』ヤッていますか、と、、こんな『食事会』やってますかと、、、、

 

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