追悼 山本真理さん
おりふれ通信編集部 木村・石井
長く入院、療養されていた山本真理さんが、先日亡くなったとの報がありました。毎日のように真理さんからメールでいろんな情報を受け取っていた時期から随分の時が過ぎ、「とうとう…」という感じです。心からご冥福をお祈りします。
おりふれ通信として、山本真理さんを振り返ってみると、1985年3月号巻頭、長野英子さん名での「宇都宮病院事件の本質は何かー患者の立場からー」の寄稿が初回でした。その後は2000年代に入ってから、全国「精神病」者集団や権利主張センター中野の集会や学習会、出版物のお知らせを主に、時には記事を読んでの批判的意見を投稿してくれたり、年に3~4回は真理さんの文を掲載してきました。
訃報に接して、何人かで真理さんを偲び語るひと時をもちました。
根間さんは10年ほど前、減薬の勉強会で初めて真理さんに会い、世評と異なりやさしい人だなぁという印象を持ったそうです。
石井は、20代の頃、同じ病院に入院した人に誘われ、当時京都で月1回開かれていた「病」者集団の定例会に参加したのが、真理さんと初めて会った時。この頃から眞理さんは、仲間に対して「来るもの拒まず、去るもの追わず」の姿勢が徹底していたと思う。これはちょっと素っ気なくも感じたが、精神病院に入院させられ、逃げることや自分で選択する自由を奪われた体験をした私にとって、何より安全な場や関係を与えてくれた。でも当時は「精神病院を燃やせ!」など、過激なメッセージや主張におののいたり、しんどくなっちゃう時もありました。ただ、「病気になってごめんなさい。病気が良くならないの全て自分のせいだ。」でいっぱいになっていた世界にヒビを入れてくれたのも、そんな眞理さんの暴力的な言葉や態度のもつパワーだった。
木村もやはり初めての出会いは20代、松沢病院のワーカーとして駆け出しの頃で、大野萌子さんと山本真理さんの二人に、「あなたは持っている鍵で、今すぐ松沢病院の全閉鎖病棟の扉を開けなさい!」と言われ、怖かった。その後は敬して遠ざけるように過ごしてきたと言いました。
藤井雅順さんは、精神保健福祉士養成コースの病院実習の頃、山本真理さんに初めて会い、真理さんの語る理念と、現実の精神病院での患者さんの境遇のあまりのギャップが衝撃的だった。真理さんから「あなたは敵になるの、味方になるの?」と問われたことも印象に残っている。その後ギャップを自分なりに埋めるべく、松沢病院の資料館に皆で通ったり、模索してきているという話でした。
真理さんが言っていたこと、「清潔なシーツ、布団の寝床でゆっくり眠り、休養できることが大事」ということから、休養入院という言葉はあるが、入院はいろいろ気も使うし、環境も休まるとは言いがたいよねという話。真理さんは入院より温泉行った方がいいって言って、デトックス(?)みたいな温泉・断食旅行してたよ。
真理さんの未来図は何だったんだろう?「クライシスセンター」のことはよく言ってた。入院でなく、認定調査、支援区分などの時間のかかる手続きをしないと使えないショートステイでもなく、そういう手続きは飛ばして、緊急時、必要な時にすぐ泊まれる場。「ご飯を一緒に食べるってことも大事」に思ってたと、真理さんとご近所だった石井が、真理さんに肉団子の鍋を作ってもらったことなど、いろいろな思い出を話した。真理さんは怒ってるイメージが強い人だったけど、「こわいんだけど、こわくない。真理さんの前ではなぜか仏頂面でいられた」
精神病院と闘う一方、自らの地域生活にホームヘルパーや、外出時約束の時間、場所に着くためのガイドヘルパーが必要なことも明らかにし、自治体への批判や交渉の経過も発信して世に問うた人。保安処分・医療観察法を許してはいけないという一貫した強い思い…、真理さんをめぐる話は尽きず、時間となりました。
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