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伊藤裁判が結審を迎えて

精神医療国家賠償請求訴訟研究会会員 成ヶ澤真紀子

 

 2024年6月18日は悪天候に見舞われましたが、伊藤さんの第16回口頭弁論には、全国から62人の方がお集まりでした。皆さん、被告国側の最終弁論を聞きたかったのではないでしょうか。私も、リーガルドラマで見るような激しいやり取りを想像していたのですが、実際は、原告被告ともこれ以上の主張がないことを確認しただけで結審となりました。開廷からものの3分と経っておらず、傍聴席には、拍子抜けした空気が流れました。

判決言い渡しは、101日(火)14時に決まりました。奇しくも、裁判提訴したのが2020年の9月30日であったことを思い起こさせる日程ですね。自然と4年間がフラッシュバックしてきます。最初の裁判の日、皆さんと横断幕を持って裁判所の前を行進したこと。伊藤さんの原告意見陳述が、心を打たれる歴史的な第一声であったこと。伊藤さんが40年にわたって「かごの鳥」にされ、人間としての自由を奪われたことに対して、国側の反論は「不知」「否認」であり、裁判でさらに人権を踏みにじられるのかと失望したこと。裁判が結審した今、全体を振り返ると、国側は一貫して、精神医療制度の違憲性や厚生大臣等の不作為について「不知」「否認」の姿勢のまま終わりました。原告が国の不作為を問うている裁判で、国の不作為について触れることもない国の不作為。あぁそうか、と落胆する思いです。損害賠償を請求するには原告が証明しなければならないのが訴訟のルールだから、ということは勉強しましたが、立法の不作為、行政の不作為に続いて、判決において司法の不作為までが行われないことを願うばかりです。

 さて、第16回口頭弁論に戻ると、開廷と同時に、裁判官の交代が告げられました。これは、過去15回の口頭弁論に全く立ち会っていない裁判官が判決を言い渡すということでしょうか。私たちは、これまで裁判官の心情に訴えることを意図して傍聴支援行動を続けてきたのですが、そういった心理的な影響を一切排除して、純粋に損害賠償の法律要件のみに基づいた判決を下すことが裁判の正義なのでしょうか。こういった判決前の裁判官交代は他の裁判でもよくあることなのか?わからなくて戸惑っているのですが、私は、伊藤さんが人生レベルの損害を被ったことについて、事実がいくら非道であっても、それが違法であるかどうかは別問題であるというメッセージを、最後に裁判所から受け取った気がしました・・・

 

<全文は、おりふれ通信434号(2024年7月号)でお読み下さい。ご購読(年間3,000円です)のお申し込みは、本ブログ右下のメール送信で。または FAX042-524-7566 立川市錦町1-5-1-201 おりふれの会へ>

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