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信子さんとのこと

飯田文子

私が信子さんと出会ってから、もう50年近くなります。

 最初は、どこで出会ったのか、もう記憶にありません。当時、私たちは東京都の保健所の職員でした。信子さんは、薬剤師の資格を持った環境衛生監視員、私は、精神衛生相談員でした。その頃は、都の職員の労働組合の活動が、今と比べるとはるかに活発でストライキも何回か行われました。その労働組合の活動の中で、私たちは、出会ったと思われます。その後、それぞれ別の保健所に勤務していた私たちですが、それぞれの保健所の同僚が冤罪事件に巻き込まれ、その人たちの冤罪を晴らす支援の運動をする中で、より頻繁に彼女と付き合うこととなりました。

 運動を通じての付き合いから始まりましたが、段々に個人的な愚痴話をする関係になっていきました。私は、保健所を辞め、その日暮らし的な生活をしばらくしていましたが、その間も時々彼女と会い、お互いの近況報告をしていました。その内、彼女も保健所を辞めてデパートの医務室に仕事の場を移しました。

 1981年柏木診療所が開設し、私は事務員として働き始めました。彼女がいつ頃から、精神衛生・福祉に積極的に勉強し、関わりを持ち始めたのか?これも記憶にありません。81年には少なくとも地業研に時々は、参加していたはずですが。柏木診療所は、当初地業研のメンバーが交代で手伝いに来ていたので、彼女にも手伝ってもらったかもしれません。 1985年に開設したにしの木クリニックの薬剤師、戸塚弁護士の事務所の事務手伝いのパート職員として勉強を兼ねた仕事をしていた時もありました。

1985年11月、私とスペイン旅行に行きましたが、その時にはすでにスペインの精神科病院や医師と繋がりを持っていました。その後1986年10月~1988年12月までスペインとイギリスへの留学を経て1989年から彼女の本格的な活躍が始まりました。

  1993年には、純粋に遊びで彼女を含む何人かと南の島、ランギロア島に出かけ、初めてスキューバダイビングを体験しました。帰国後、彼女は早速スキューバダイビングを学ぶ学校をみつけてきて私を誘いました。ここから私たちの島行きが始まりました。伊豆七島の各島から、鹿児島県の沖永良部島、沖縄県の西表島等に出かけました。2004年には結核に罹患し、療養中だった私を彼女は療養のためと20年ぶりにランギロア島に誘ってくれました。私は、バンガローのデッキで昼寝、彼女は、スキューバダイビングという優雅な日々を過ごしました。

 沖永良部島には、行きつけの泊まり場所ができ私たちは、毎年故郷に帰るように島に出かけたものでした。

 1985年から2010年までは、「おりふれ通信」は、毎号のように、彼女の原稿を掲載しました。今回改めて振り返って見ると、日本の精神科医療・福祉を変革することを目標として活動した15年間でした。しかし、あまりの変化のなさ、むしろある面では後ろ向きになっている状況に空しさを強く感じていたと思われます。

 一昨年の夏、母親の介護をしていた彼女は、母親の検査のついでにした検査で膵臓癌が見つかりました。母親の介護をしながらの闘病生活。昨年初めには、母親を亡くしました。このころから死への準備を始めていたのかと、今思います。私は、元気そうに見える彼女の引越や飲み食いに付き合い呑気なものでした。9月には今までも時々出かけていた箱根への一泊旅行をしました。今年に入って1月半ばには、信子さんとの電話で、お母さんの一回忌の準備をしていると聞きました。しかし2月半ばに、家族や友人から、一回忌を終えて以降急速に元気をなくしているとの連絡が入り、心配になって彼女に電話し、220日にお見舞いに行きました。その時にはベッドの上ではありましたが、一緒にビールを飲みました。

 彼女の方は死への準備をしっかりしていたのに、私は脳天気に、まだまだ時間はあると思い込んでいました。31日に見舞いに行く予定でしたが、家を出る前に彼女が亡くなったと連絡がありました。そのまま彼女の家に行きましたが、お見舞いのつもりだったのが、お別れになりました。

 さようなら、信子さん。



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