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追悼 小林信子さん

東京精神医療人権センター事務局長、おりふれ通信の会の前身「精神医療をよくする会」のコーディネーターであった小林信子さんが、去る3月1日に亡くなりました。

小林信子さんを偲んで           弁護士 戸塚悦郎

 

精神病者の再犯防止のためと言って、法務省が保安処分の導入を提案していたときのことです。拘禁を乱用して保安処分施設化していた精神病院群の実態こそが問題、人権擁護のために精神衛生法を改正する必要があると朝日新聞の声欄に投稿したのです。それを読んだ精神医療関係者の方たちが、私の法律事務所を訪ねて来られました。

その中の一人に小林信子さんがおられ、ボランティアとして事務所を手伝ってくださると申し出てくれたのです。薬剤師で、英語もスペイン語もできる有能な方なので、週3日有給で働いていただきました。

精神医療の実態がわからなくては、現実に合わない間違った判断をしてしまう危険があります。小林さんは、精神医療をよくする会を主宰しておられた柏木診療所の藤沢敏雄先生ほかスタッフ、雑誌『精神医療』の編集者吉森次郎氏、病院・地域精神医学会理事長の広田伊蘇夫先生、その他精神科病院や保健所職員の方々など大勢の精神医療関係の専門家とはばひろい交流がありました。そのような専門家との交流と共同作業ぬきでは法改正運動などできるはずもありません。小林さんは、私たち法律家の研究と運動が広がりを保つうえで、得難い働きをしてくれました。そのおかげで、大きな間違いもなく、円滑に研究と運動を進めることができたのです。

国際法律家委員会(ICJ)、障がい者インターナショナル(DPI)、世界精神保健連盟(WFMH)など国連NGOの人権実情調査団を招致したときにも、小林さんは、外国語能力と専門知識を発揮して、活躍してくれました。私たちの長く困難な研究と運動の苦労が実って、1987年9月やっと精神衛生法を廃止し、精神保健法とする立法が実現しました。私は、バーニングアウト寸前の状態で、新法施行段階で、1989年2月法律事務所を閉めました。英国ロンドン大学精神医学院(IoP)に留学すれば、日本の精神保健分野の改革に役立つ研究ができると思ったのです。しかし、そんなに簡単ではありませんでした。
二つの問題がありました。
一つは、英国の教授たちの助言です。IoPの司法精神医学科のジョン・ガン教授は、はやくから「人々の考え方を変える必要がある」と強調していました。保健法専攻のイアン・ケネディ教授は、「やかんのお湯を沸騰させ続けよ」と言うのです。いずれにしても、英国法の解説書の執筆ぐらいでは改革は実現しない、「永久運動を続ける必要がある」というのです。「一介の弁護士ではとても手に負えない」と、身に染みました。「もっと実効的な方法を」と考え、国際人権法の勉強と研究・実践に転換しようと決意したのです。
もう一つは、日本の精神保健・福祉制度を改革するには、精神医療・保健・福祉の優れた専門家が必要なのです。英国留学中に多くの精神医学者、看護師、心理学者、精神保健ソーシャルワーカー、その他の専門職の方々と知り合いました。そこでできる限り多くの日本の専門家に英国の専門家を紹介しようと努力しました。
ところが、小林さんは、得意のスペイン語を生かして、スペイン政府国費奨学生として、自ら留学し、現地の多数の改革運動のリーダーたちと交流したのです。それが、1986年10月で、法改正実現より1年も前だったことは、木村さんの追悼文(おりふれ通信19年4月号)で思い出しました。スペインでは、ラディカルな精神医療の改革が進行中でしたから、それを学ぶ必要があると考えたに違いありません。先見の明があったのです。英国で精神科リハビリ施設を運営していたリッチモンド・フェローシップの現場を体験してもらったのは、そのあとのことです。英国では、指導的な精神科ソーシャルワーカーで、地域精神保健サービス改革に活躍していたエディス・モーガンさん(WFMH会長)にも紹介しました。
 小林さんは、帰国後、東京精神医療人権センターその他の活動に熱心に取り組んだのです。三度日本を訪問した国際法律家委員会のNGO人権実情調査団の受け入れにも活躍されました。国際経験を活かし、来日する海外の精神保健関係者の方々を迎えて、国際的な支援活動を継続したのです。
ICJ訪日調査の中心だったティモシー・ハーディング名誉教授(元ジュネーブ大学司法精神科)は、近年のメールのやり取りで小林さんが体調を崩していることを知り、とても心配しておられました。最近、「小林さんに連絡しても返事がない」と、私に小林さんの健康状態を問い合わせてこられました。小林さんと電話でお話しができましたので、近況をうかがい、教授に連絡したのです。飯田さんから小林さんが亡くなられたとのお知らせをいただいたときには、その直後にお知らせしました。母上の介護が終わったあとで病状が悪化し、自宅療養しておられたことを教授にお伝えしました。「自宅で療養していたのはとても良いことです」「小林信子さんは、本当に勇敢な女性でした」とのお返事がとどきました。
世界的に地域精神保健医療を推進していたモーガンさんは、地域保健医療改革と在宅療養の実践を勧めていました。小林さんは身をもってそれを実践していたのです。
「お見舞いに行きたい」と言っても固辞されてしまいました。あえて病床を尋ねても迷惑かと遠慮したまま、直接感謝の言葉を言いそびれてしまったのが残念です。精神医療と人権のためのボランティア活動に生涯をささげた小林信子さんに深く感謝し、ご冥福をお祈り申し上げます。小林さん、本当にご苦労様でした。

 

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小林信子さんの思い出

前東京精神医療人権センター代表 永野貫太郎

 小林さんに初めて会ったのは何時のことだったか。この文章を書くにあたって、色々考えてみたが、どうしてもはっきりとは思い出せない。小林さんが戸塚事務所に勤めていた時だったか、人権センターの会議であったか、いずれにしても30年近い昔のことで、今年は私も喜寿の年となる。

 人権センターの活動として、小林さんと一緒に精神病院を訪問したり、精神医療審査会への退院請求等の代理をしたのは、人権センターに関係した弁護士の中では私が一番多かったのではないかと思う。人権センターも発足当時は藤沢敏雄先生が代表、私が事務局長で、相談日には多忙な藤沢先生も、相談の手紙に返事を書いてくれたりして牧歌的な時代であった。この当時、小林さんはたしかスペインに留学しているとのことだったが、その後帰国して、事務局の主要メンバーとなり、病院訪問等に中心的に関わることとなったと思う。

小林さんと一緒に訪問した多くの精神病院のうち、2つの病院が印象に残っている。ひとつは多摩地域の、最寄り駅からバスで長時間かかる病院で、この病院に後見人である家族の同意で入院させられているが、退院して自分のマンションで生活したいという強い希望を持つ患者さんからの相談だった。

訪問して患者さんに面会し話を聞いてみると、到底「心神喪失の常況」にあるとは考えられなかったため、家庭裁判所に後見解除の申請を出し、鑑定申請をしたケースである。この件では、最低でも5回は小林さんともども同病院を訪問し、主治医の意見を聴取し、申立書、意見書を作成して裁判所に提出した。裁判所も鑑定を採用してくれ、複数の鑑定人も6ヶ月近くかけて詳細な書面を作成してくれて「心神喪失の常況にはない」との意見であった。しかし裁判所は後見(禁治産)を解除せず、高等裁判所に控訴したが、控訴棄却となってしまった。この患者さんからはその後も連絡があり、しばらくは毎年同病院を訪問した。裁判所の結論が出た時、私は大いに憤慨したが、小林さんは意外に冷静で、「日本の裁判所なんてこんなものよ」と言ったので、私は小林さんはこんな対応もできるのかと意外に思ったのを覚えている。

もう一つは、長期措置入院の三人の退院請求である。この三人については退院請求(措置解除請求)を繰り返し申請したが、ことごとく退けられ何の積極的結果も得られなかったが、請求を続けるうちに、一人は合併症のため他の病院に転院し、他の一人は請求をあきらめてしまった。残った一人について、小林さんは何度も訪問し、何とか措置入院を解除するべく努力を続けてくれた。それにもかかわらず退院請求は退けられ続けたが、とうとう病院が根負けしたのか、措置入院を解除して医療保護入院に変更した。当患者はこれで1ヶ月に一回程度は買い物に外出できるようになり、これ以上は請求してもらわなくてよいとの意思表示をしたため終わりとなった。この件は小林さんの粘り勝ちであった。

小林さんは私の後の人権センター事務局長となり、10年以上多方面で活躍し多大な業績をあげ、人権センターの名を高めてくれた。

さて、個人的な小林さんの思い出は何故かお酒にまつわるものが多い。小林さんはスペインに留学しただけに、スペインの酒特に赤ワインが好きで、どのワインがうまいかもよく知っていた。私は一度第二東京弁護士会で講演をしたことがあり、若干の講演料をもらったので、終了後講演を聴きに来てくれていた小林さんをさそって、小林さんの知っているシェリー酒(スペインの酒である)専門のバーに行って、二人で講演料を全部飲んでしまったこともある。今では店の名も場所も忘れてしまったが、ずい分うまいシェリーだったと記憶に残っている。

この度小林信子さんが亡くなられたとの知らせに接し、突然思い出した次第である。もう一度小林信子さんとうまいスペインの赤ワインをのみたかった、残念。さようなら 信子さん!



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信子さんとのこと

飯田文子

私が信子さんと出会ってから、もう50年近くなります。

 最初は、どこで出会ったのか、もう記憶にありません。当時、私たちは東京都の保健所の職員でした。信子さんは、薬剤師の資格を持った環境衛生監視員、私は、精神衛生相談員でした。その頃は、都の職員の労働組合の活動が、今と比べるとはるかに活発でストライキも何回か行われました。その労働組合の活動の中で、私たちは、出会ったと思われます。その後、それぞれ別の保健所に勤務していた私たちですが、それぞれの保健所の同僚が冤罪事件に巻き込まれ、その人たちの冤罪を晴らす支援の運動をする中で、より頻繁に彼女と付き合うこととなりました。

 運動を通じての付き合いから始まりましたが、段々に個人的な愚痴話をする関係になっていきました。私は、保健所を辞め、その日暮らし的な生活をしばらくしていましたが、その間も時々彼女と会い、お互いの近況報告をしていました。その内、彼女も保健所を辞めてデパートの医務室に仕事の場を移しました。

 1981年柏木診療所が開設し、私は事務員として働き始めました。彼女がいつ頃から、精神衛生・福祉に積極的に勉強し、関わりを持ち始めたのか?これも記憶にありません。81年には少なくとも地業研に時々は、参加していたはずですが。柏木診療所は、当初地業研のメンバーが交代で手伝いに来ていたので、彼女にも手伝ってもらったかもしれません。 1985年に開設したにしの木クリニックの薬剤師、戸塚弁護士の事務所の事務手伝いのパート職員として勉強を兼ねた仕事をしていた時もありました。

1985年11月、私とスペイン旅行に行きましたが、その時にはすでにスペインの精神科病院や医師と繋がりを持っていました。その後1986年10月~1988年12月までスペインとイギリスへの留学を経て1989年から彼女の本格的な活躍が始まりました。

  1993年には、純粋に遊びで彼女を含む何人かと南の島、ランギロア島に出かけ、初めてスキューバダイビングを体験しました。帰国後、彼女は早速スキューバダイビングを学ぶ学校をみつけてきて私を誘いました。ここから私たちの島行きが始まりました。伊豆七島の各島から、鹿児島県の沖永良部島、沖縄県の西表島等に出かけました。2004年には結核に罹患し、療養中だった私を彼女は療養のためと20年ぶりにランギロア島に誘ってくれました。私は、バンガローのデッキで昼寝、彼女は、スキューバダイビングという優雅な日々を過ごしました。

 沖永良部島には、行きつけの泊まり場所ができ私たちは、毎年故郷に帰るように島に出かけたものでした。

 1985年から2010年までは、「おりふれ通信」は、毎号のように、彼女の原稿を掲載しました。今回改めて振り返って見ると、日本の精神科医療・福祉を変革することを目標として活動した15年間でした。しかし、あまりの変化のなさ、むしろある面では後ろ向きになっている状況に空しさを強く感じていたと思われます。

 一昨年の夏、母親の介護をしていた彼女は、母親の検査のついでにした検査で膵臓癌が見つかりました。母親の介護をしながらの闘病生活。昨年初めには、母親を亡くしました。このころから死への準備を始めていたのかと、今思います。私は、元気そうに見える彼女の引越や飲み食いに付き合い呑気なものでした。9月には今までも時々出かけていた箱根への一泊旅行をしました。今年に入って1月半ばには、信子さんとの電話で、お母さんの一回忌の準備をしていると聞きました。しかし2月半ばに、家族や友人から、一回忌を終えて以降急速に元気をなくしているとの連絡が入り、心配になって彼女に電話し、220日にお見舞いに行きました。その時にはベッドの上ではありましたが、一緒にビールを飲みました。

 彼女の方は死への準備をしっかりしていたのに、私は脳天気に、まだまだ時間はあると思い込んでいました。31日に見舞いに行く予定でしたが、家を出る前に彼女が亡くなったと連絡がありました。そのまま彼女の家に行きましたが、お見舞いのつもりだったのが、お別れになりました。

 さようなら、信子さん。



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国連恣意的拘禁作業部会メンバーホンさんの来日公演のご案内

精神医療国連個人通報センター 山本眞理

 

国連の人権理事会の特別報告者の一つである国連恣意的拘禁作業部会のメンバーであるホンさんを韓国からお招きして以下講演会を開きます。

 昨年は作業部会から日本政府に対しては3つの意見が出ています。精神の分野では東京の措置入院に対して恣意的であるという意見が2つ、さらに辺野古の反基地闘争のリーダー山城博治さんの逮捕に対しても恣意的であるという意見が出ています。

昨年11月のセッションで採択された2つ目の東京の措置入院は、ホテルで体調不良のため粗相したという方が、そのことをホテルに告げたあと外出から帰ってみるとなんと警官が待ち受けており、そのまま連行措置となったという例です。直ちに釈放と賠償が求められています。詳しくは精神医療国連個人通報センターのサイトに全文邦訳が掲載されています。意見では、あたかもホテルが厄介な宿泊客を排除するために警察の協力を得て措置入院制度を使ったようであり、作業部会はこの当局の対応に当惑している、とまで言われています。この方は後見人の同意で医療保護入院中であり、未だ釈放されていません。

3つの意見にあるように刑法刑事訴訟法での逮捕と、措置入院は同様の拘禁とされています。拘禁とは自分の意志ではなく入れられ自由に出られないところを指すのであり、その根拠法の用語、あるいは拘禁の目的が医療であろうが、福祉であろうが、教育であろうが拘禁です。したがって刑事施設や入管施設、あるいは精神病院だけではなくて、高齢者施設、障害者施設、特別支援学校ほか学校の寮なども拘禁に当たります。拘禁が合法か恣意的でないかという切り口から一つ一つの強制入院を審査していくことがこの作業部会への個人通報の意義です

 この拘禁がなされた場合は人身保護請求がなされる権利があるべきですが、日本では法律に則っている限り人身保護請求が動くことはありません。しかし例えばアメリカでは刑事施設や精神病院から人身保護請求で釈放という例もあるとのことです。

 講演会ではこの人身保護請求に関する作業部会の原則ガイドラインを中心にホンさんに講演いただきじっくり質疑応答の時間を取りたいと思います。あらかじめ精神障害者権利主張センター・絆のサイトにある、作業部会の原則ガイドライン(精神障害者権利主張センター・絆→国連恣意的拘禁作業部会→「国連自由を剥奪された誰もが法廷の手続きに持ち込むための権利についての救済と手続きに関する基本原則とガイドライン」)をお読みの上ご参加いただきたいと存じます。

プリントアウトできない方には郵送いたします。 ぜひ多くの方のご参加を!

日時 2019年6月2日(日)午後1時より午後4時半まで

場所 大阪経済法科大学アジア太平洋研究センター

東京都港区麻布台1-11-5東京麻布台セミナーハウス 地下鉄神谷町駅1番出口 徒歩5分

http://www.keiho-u.ac.jp/research/asia-pacific/access.html

 

参加費2000円 障害者1000円 通訳付き(資金0の企画です。できれば通訳費用+カンパを) 

要申込 申し込み先メール nrk38816@nifty.com または mariyamaoto@gmail.com

  

主催  精神医療国連個人通報センター 電話 080-1036-3685

    https://peraichi.com/landing_pages/view/kozintuhoucenter

 

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