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概論カフェまあん「精神医療のむかし・いま・・・未来をどうする!」 ~看護士・五味金次さんのお話を聴きながら~自分の看護を重ねる

就労移行支援事業所 せんげん台「世(よ)一緒(いしょ)」所長 高瀬勇  

 五味さんは昭和27年生まれで、26年生まれの私と一つ違い。28歳で精神科病院に入職(私は26歳)。五味さんは「多摩あおば病院」一筋。私は4病院を渡り歩いた。
 入職当時、五味さんの病院は閉鎖病棟時代。保護室で患者が凍死したり、副主任が患者の腕を折ったり、夜勤帯では看護婦が0時の巡回後、朝まで寝てしまったり、酸素が切れてしまい夜勤帯は無医村だったため、清瀬市から医師の応援を頼まざるを得なかったりで、悲惨を極めていたようだ。さらに病院は56億円の負債を抱えていて(患者のお金を4千万円使い込んだり)、倒産の危機に陥り競売にかけられていた。組合が3年半の闘争(そのうち2年間は自主管理)の末、「医療改革なくして再建なし」のスローガンを掲げて開放化を理解してくれるオーナーを探した。
 当時の五味さんは看護助手。食事介助、入浴介助、おむつ交換が主な仕事。資格のある看護婦は時間が来ると食べ終わっていないのに下げてしまったり、入浴後裸のまま病室へ行かせたり、おやつを半分取り上げたりで、一番差別意識を持っているのは看護婦ではないかと思った五味さん。また医師、正看護婦・士、准看護婦・士(当時。現在は看護師・准看護師に名称変更)、看護助手のピラミッドを崩さなければならないと組合運動に積極的に関わった。スパナで鉄格子を外すことから、開放化はスタートした。当時開放化を先駆けていた三枚橋、岩倉、駒木野病院から学び、全開放を目指した・・・

 以下、全文は、おりふれ通信370号(2018年7月号)でお読み下さい。ご購読(年間2,000円です)のお申し込みは、本ブログ右下のメール送信で。または FAX042-524-7566 立川市錦町1-5-1-201 おりふれの会へ

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