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病があっても人として生きたい― 「精神病」と「ハンセン病」を語る集いin沖縄―を開催して

障がいのある人もない人もいのち輝く条例づくりの会(以下条例の会)事務局
「精神病」と「ハンセン病」を語る集いin沖縄実行委員会 事務局 早坂佳之

<運命的な出会い>
2014年11月29日、沖縄で一つの運命的な出会いがありました。
国の施策で社会から隔離、収容を強いられてきた「ハンセン病」と、現在も隔離収容政策の下にある「精神病」が、国立(元ハンセン病)療養所沖縄愛楽園という場で出会ったのです。
私がこの出会いに関わることになったのは遡る事4か月前の8月16日に行われた「国連障害者権利条約批准記念JDF地域フォーラムin沖縄」の懇親会の席で、こらーるたいとうの加藤真規子さんと出会った事がきっかけでした。
実は、加藤さんとは6月26日、日比谷公園で行われた「生活をするのは普通の場所がいいSTOP! 精神科病棟転換型居住系施設!!」に、沖縄から那覇ピアサポートネットワークのピアサポーター新田宗哲さんと具志堅直人さん、インクルーシブ教育を実現する会の金城照美さんを送り出した際、宿泊のお世話や、病院訪問に同行させてもらったりした縁がありました。しかしまさかその時には、沖縄でこのような大きな集会が開かれることになるとは思ってもいませんでした。
 3名の報告からも、精神障害者が置かれている事態の深刻さが伝わってきました。これまでも、精神障害の方や関係団体と表面的な繋がりはありましたが、条例の会として、もっと深くかかわっていくことになった転換期だったと思います。
 その象徴として、7月から新田さんが新しい条例の会副代表となりました。
 加藤さんは先にハンセン病問題とかかわりのあった宜寿次政江さんとつながり、当日会場となる愛楽園を見てこられていました。
 これまで東京、大阪と2回の全国集会を経て、第3回目の沖縄では「ハンセン病問題」とつながって人権問題であることを根っこから意識させるものにしたいという言葉に、私は、深く同意を覚えました。そして、この集会が「何かを変える」きっかけになると直感しました。
 沖縄県では「障害のある人もない人も共に暮らしやすい社会づくり条例(以下:インクルーシブ社会条例)」が今年の4月1日から施行されていました。制定過程でも、制定後も、事あるごとに条例の会事務局には精神障害の当事者や家族から電話がありました。
「(条例ができると)病院が無くなり、自宅に(精神障害の)身内が帰ってきて困る」
「今の制度はおかしい、早く病院を出たい」
理想を訴える自分たちの活動に呼応するように、届けられるこれらの声に、私たちの社会がこれまでずっとつくってきた壁、理想を越える現実を突きつけられ、何度もくじけそうになりました。
この問題の根底にあるのは、大きな声で発せない「社会の空気」そのものではないでしょうか。
私は、今回の集会が、ハンセン病回復者の力を借りて、この「空気」を払うきっかけになってほしいと期待をしました。
<始まった実行委員会>
9月2日沖縄大学で第1回目の話し合いが行われました。多彩な方々が実行委員会として加わりました。加藤さん(こらーるたいとう)、ハンセン病回復者の金城雅春さん、金城幸子さん、平良仁雄さん、那覇ピアサポートネットワークの新田さん、具志堅さん、兼浜克弥さん、沖縄県精神保健福祉会連合会の高橋年男さん、自立生活センターの面々、金城照美さん、療育ファミリーサポートネットワークほほえみの福峯静香さん、宜寿次さん(HIV人権ネットワーク)、沖縄県脊髄損傷者協会の仲根建作さん、本当にすごい人たちが集まりました。その後も、ジャーナリストの山城紀子さん、10代の当事者である日高里緒さん等が加わりました。体制として新田さんと金城雅春さんが実行委員会共同代表、具志堅さんが事務局長を務める事、事務局を沖縄県自立生活センター・イルカに置くことが決められました。
実行委員会は3か月間で計6回行われました。どの実行委員会でもシンポジウム並の白熱した議論が行われました。当初の議論の中心は趣意書に「精神保健福祉法反対」という言葉を盛り込むべきか、「病棟転換型居住系施設」の問題は入れるべきか、という議論でした。それは、沖縄の精神科病院医師へ講師依頼をする際の妨げになるのではないか、広く合意を受けるには早過ぎはしないか等の議論でした。結果的には前者はいれず、後者を入れたものになりました。また、ジャーナリストの原義和さんのご紹介で吉川武彦さんのご協力をいただき、貴重な沖縄の私宅監置の写真も入れることができました。
その要綱をもって、全国団体、県、県教育委員会、名護市、名護市教育委員会、沖縄県社会福祉協議会、県内マスコミに後援を依頼しました。たいへん議論し、練られた要綱でしたが、県と県教育員会からは後援を断られました。
県が後援を断った理由として挙げたのは、子ども生活福祉部内の「行事の共催等に関する取扱い要領」における後援の取り扱いが「国又は地方公共団体の厚生行政施策推進上効果があると認められるもの」とされており、趣意書内の「…そして最近の病床転換型居住施設の容認による長期入院の固定化等、精神障害がある人々に対する社会的障壁の存在はますます深刻な状況に向かっているといっても過言ではありません。」という文言が、国の施策に反対であると受け取れることから、窓口判断で上にあげなかったという返事でした。
私はこの返事に何のためにインクルーシブ社会条例をつくったのだろうとがっかりしました。
まず、先にも述べたとおり今回の語る集いの趣旨として、「反対」を前提とはしていません。第1部シンポジウムでは精神科医、弁護士、ハンセン病回復者、自立生活センター代表、当事者から各報告があり、第2部では会場から自由に声を発し、聞く場です。当事者の声を聞く場について、もっと県は積極的にかかわるべきです。当事者の声を聞かない事は偏った施策実行、無駄な予算配分に繋がり、何よりも「Nothing about us without us」の障害者権利条約の理念に反するものです。また、病棟隔離型の日本の精神科医療についての問題点は国連からの勧告もあり、国の内閣府や外務省も共有していることです。
蛇足になりますがインクルーシブ社会条例制定過程において、県は地方分権を盾に、本条例で各市町村に「差別事例相談員」の配置を規定することはできないといいました。そのため現在各市町村において「差別事例相談員」はほとんど機能を果たしていません。窓口に差別を受けたと話を持って行っても「これは差別に当たらない」とその場で処理されてしまう状態が続いています。翻って今回の件は地方分権ではないのでしょうか。県は自分で判断できないのでしょうか。これでは県は責任から逃れているようにしか見えません。
実行委員会では今回の後援拒否の理由について重く見て、「意見書をつくり、参加者から決議文として採択を受けたものを県と県議会に手渡そう」ということになりました。意見書の文面についても多くの時間をかけて議論が行われました。
しかしその調整でも壁が存在しました。県議会議長の日程調整はうまくいきましたが、県の日程調整は難航しました。理由は医療的なものか福祉的なことかで管轄が異なる、という事です。私たちは先に県教育委員会にも後援依頼を出していましたが、教育的なものではないとされ、断られました。「どこが所轄かは決議文の内容を見てから判断する」とされ、縦割り行政を垣間見ました。この案件は教育、医療、福祉、全てに関わるものですが、行政にはその受け皿がないのです。ですから宛名は知事にすることにしました。
また、集会の資金の集め方も議論になりました。実行委員会の中で精神科病院や製薬会社の協賛を得ては?という意見もありましたが、加藤さんから、「もしこれを通すなら私たちは手を引きます」という強い抗議があり、撤回されました。確かに病院や施設から障害者が地域移行し、最終的には病院や施設をなくすための運動をするのに、病院や施設側からお金をもらってやるのはおかしいことです。これは実行委員会の反省点です。資金集めは団体からのカンパや寄付等で賄う事になりました。本当に実行委員会に携わってきた人たちはボランティアの手弁当で参加しました。
そんな折、実行委員会のメンバーが精神科病院に医療保護入院したという情報が入ってきました(上記メンバーに名前はありません)。実行委員会の仲間として、行動をする必要がある、という事になり、11月に入ってから加藤さん、新田さん、具志堅さん、早坂でお見舞いにいきました。その際、宜寿次さんから手紙を送り、集会当日ぜひ参加してほしいことを事前に伝えました。また、訪問した際にも、参加依頼文を直接手渡しました。面会室では主治医も入って現在の状況の報告と、今後の退院に向けどうしていったらよいか話し合いが行われました。結果的には本人に集会に参加してもらうという試みは成功しませんでした。これは一言で言えば、私たちも含む周囲や本人自身のエンパワメントが必要だった、という事です。まずそのことを受け入れないと建設的な話が進みません。
私はこの経験から、理念(理想)と現実とを近づけていくことの大変さと必要性を感じたのでした。

<いよいよ集会が始まる>
集会前日の11月28日、実行委員会のメンバーは愛楽園に入り、準備し、勉強会を行いました。勉強会では加藤さんと金城雅春さんがリレー形式で講師をされ、最終的な決議文案の内容を詰めました。
そして、11月29日当日を迎えました。
その日「精神病」と「ハンセン病」の初めての出会いと併せて、210名の参加者同士の出会いがありました。沖縄の北部の離島のもっとも奥に、県内外210名もの人が集ったことはすごいことです。学生など若い人もたくさん来ていました。
ここでは詳しい報告はしませんが、シンポジウムではまず金城幸子さんからハンセン病元患者としてのご経験や、ご自身の母上が精神を病んでしまったことの経験から、社会に必要なやさしさについて訴えました。精神科医の伊藤哲寛さんからは、精神障害があっても地域で生きる権利を実現するための実践報告がありました。弁護士の八尋光秀さんのお話は、精神科病棟の中の状況について人権の観点から報告がありました。長位鈴子さんからは、インクルーシブ社会条例をつくってきた経験から、これから条例を使っていく中で必要なことについて発言がありました。そして、新田さんからは、当事者自身のエンパワメントと、当事者自身が発信する事の大切さを、これまでの自身が受けてきた差別の事も交えて伝えていただきました。
シンポジウムの熱さがさめない中、会場との意見交換では様々な論点から意見や質問が出ました。特に若い人たちからの前向きな意見が多く出ていたことが印象的でした。
最後に決議文案が読み上げられました。今回、司会や新聞記事でインタビューを受けた日高さんが前文を読み上げた後、決議事項は実行委員会メンバー全員で読み上げました
幸い参加者の皆さんからは拍手で賛同をいただくことができ、これを決議文として採択しました。後日、沖縄県議会議長と、沖縄県子ども生活福祉部長を通して県知事に手渡しました。また厚労省の実施しているパブリックコメント他等にも送りました。
今回の「精神病」と「ハンセン病」、そして多くの人の出会いで、何が変わっていくのか、その成果がでるのはこれからだと思います。私の中の意識は、確実にベクトルを変えました。これからはより確信(核心)をもって全ての(社会モデルの)障害のある人と共に、インクルーシブ社会を実現していくために一個一個の活動に取り組んでいきたいと思います。

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