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障害者自立支援法10・30全国大フォーラムで感じたこと

小麦の家  N.H. 
私がこの精神障害者小規模通所授産施設「小麦の家」に通所をして約1年7ヶ月が経つ。作業内容はパンを製造し、販売するという至ってシンプルなものだ。しかし、この単調にもみえる作業にも日々、小さくはあるが変化や進歩がみられる。そして、その流れによって私自身も、仕事の感覚や社会性を取り戻してきたところだ。
   しかしながら、来春からこの小さな施設にも自立支援法の波が押し寄せ、利用者負担金というものが生まれる。私の場合、扶養控除を受けているため、ひと月に9,300円の負担金を払わなければならない。現在、障害者年金を受けていない私には、月にして約2万円弱の工賃のみが収入である。そこの中から9,300円支払う事となれば実質1万円ほどの稼ぎとなってしまう。1ヶ月、およそ60時間の労働に対して1万円しか支払わなくなるという事だ。
 一体誰の為の自立支援法なのか?私は鬼気迫る現実を目の当たりにしてようやく重い腰を上げ、複雑な心境で10・30全国大フォーラムに参加する。

 以下、両レポートの全文は、おりふれ通信 11月号でお読み下さい。
ご購読連絡先:FAX042-524-7566、立川市錦町1-5-1-201 おりふれの会


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自立支援法 参議院議員会館でのロビーング

編集部から 2日目のロビー活動に、おりふれ編集部では石井、飯田、木村が参加しました。衆議院をろうあ連盟、きょうされんなどが、参議院を「障害者の地域生活確立の実現を求める全国大行動実行委員会」のグループが担当し、私たちは参議院でしたが、たくさんの車椅子が議員会館(非常にバリアフルな建物とわかりました)を行き来するさまは壮観でした。石井さんが書いているように、車椅子は障害者のシンボルとしてわかりやすい!

ロビー活動 石井真由美
 初めて参議院のロビーイングに参加しました。
 私はあまりにも「政治のことは分からない」と確信していたので、参加することを決めてからエラク後悔したりしました。でも、行くことに決めたのは、自分は「分からない」ままでいいのかどうか分からないことが、今回やけに気になって、これは体験してみるしかないと思ったからです。
なんか自分勝手な理由です。
「政治や社会のことに疎い」のは、入退院の繰り返しや、社会のことを学ぶより、自分の病気を抱えたり、治療することで精一杯だったという理由があるのは事実です。でも、やっぱり知ろうとしなかった。知っても不満や将来の不安が強まるだけだし、とても面倒臭い感じがして知りたくなかった。(あと、いつの間に刷り込まれたのか、こういう活動に参加すると「具合が悪くなる」と思い込んでた所もあります)なんだか、社会のことや政治に触れると自分がひどくみじめな存在に見えてくる気がして嫌でした。でも、今回は気になった。

☆まず、永田町に馴染めなかった!地下鉄から地上に出たら警察官が所々にいて、すごく恐くて緊張していきなり足がもつれコケた。恥ずかしかった。

☆議員会館に到着したら、すでにたくさん人が集まっていた。

以下全文は、おりふれ通信 11月号でお読み下さい。ご購読連絡先:FAX042-524-7566、立川市錦町1-5-1-201 おりふれの会

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厚労省に「退院支援施設」「地域移行型ホーム」撤回を求める交渉の報告

 11月20日厚労省側4名、こちら側9名で開催。
 厚労省は、退院促進の一環であり、受け皿の一つの選択肢と主張。しかし、数値目標も予算執行目標もたてていない。現在「退院支援施設」は、香川県の三船病院の「レイクビュー」と山梨県の県立北病院の「歩みの家」の2箇所。今のところ手を挙げている病院はなく厚労省としても各都道府県に働きかけてはいない。また、退院支援施設運営マニュアルもなく、2施設がどのように運営されているのかの検証もされていない等々のことが明らかになった。
 こちら側としては、これまでも言い続けてきたが「退院支援施設」は退院促進を阻害する施設である。これまでの精神医療施策が長期入院者、社会的入院者を生じさせてきたことを反省し、退院につながることに金を使ってほしいと話した。
(飯田記)

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投稿 安易に抗生物質をのまないで!

水村伊織

皆さん、こんにちは!水村伊織です。

 9月にゲルマパンチという手術をしました。左太ももです。内容は3本の麻酔と1本の造影剤を入れて、上から機械が降りてきて、穴を開け、周りの組織を削り、手で膿みを絞るというものでした。その方が再発率が低いとのことです。
 2004年1月~2月に入院して、一緒にお風呂に入った老女に(介助入浴でした)、ブドウ球菌をうつされ、今も背中、おしり、胸、股、太もも・・・と、どんどん発症しています。
 手術をした時、先生に「注射針で膿を抜いて、抗生物質でたたくのは、最悪なパターンだ!」と言われました。ずっと同じ抗生物質をのんでいたので、既に菌が交代していてカビが生えていたそうです。
 皆さんにお願いがあります。風邪の時は、安易に抗生物質を飲まないで下さい。かぜには抗生物質は効きません。第二の水村にならないよう、気を付けて下さい。

 最後に、水村は2003年にY県からS県に引っ越しました。これからもよろしくお願いします。

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あと出しジャンケンの弁Ⅵ ネオリベラリズムと「福祉」の運命(承前) ー「福祉は自己責任である」安部晋三著(?) 『美しい国へ』 2006ー

岡本省三
                        
総理国会答弁より
「格差?そんなものはない!なに?ある?あってどこが悪い!」(小泉)
「もし地域格差があると思う人があるとするならば・・・」(安部)

一 おことわり
 私は古稀に近い老人であるからして、皆様を難渋させている蒼古な文体はひとえにトシのせいです。一方、昔の文士の伝統的難読原稿並の私の手書き原稿。それが〆切りギリギリに、FAXで「おりふれ」編集部に飛び込むのですから、多少の「原文との不一致」は例の「受忍の範囲」。正誤表などヤボなことはとてもとても・・・。しかし、この前の敬慕する埴谷雄高氏からの借りもの、こればかりは何としても泉下十年の氏に申し訳がたちません。で、次のとおりです。『鞭と独楽』からの「・・・この鞭がなければ、自分ひとりでは走っていられない」は、「立って・・・」となります。

二 本稿の意図の再確認
 前号前置きのとおり、「事態が今やその理論的検討を不可欠かつ不可避であることを明らかに要請している」ところの「ネオリベラリズムなるものの(中略)平明で具体的な本質的解明」への初めての本格的試み、であって如何なる意味でも「地業研」いわんや「反貧困ネットワーク」への批判それ自体を意図するものではない。誤解を避けるため再言する。

三 (上)への補足
 最早実証的データは不要に等しい。但し次の補足のみ行う。
1)急増する高齢者世帯の生保受給総数は、2003年度以降絶対減に転じている。
2)かの大阪市の驚くべき「創意工夫」を紹介する。即ち多年の慣行として各地で確立している便法に対し、市は支援団体所在地を住所地として登録して生保を受給していた大量の釜ヶ崎の住民を「虚偽、違法」な登録の故を以て一挙に抹消=生保剥奪を強行した。その根拠は言うまでもなく「生活保護法違反」の一片の国家官僚作の通達である。
3)「対象文」が詳述する「確定勝訴判決例」について
 それは以下のとおり極めて限定された、がんじがらめの制限下にある。即ち①提訴そのものがほとんど不可能に近いこと ②勝訴→確定は稀有の奇跡に等しいこと ③司法的救済の効果は勝訴者本人にのみ及び、一般遡及力を持たないのみならず、行政がこれにすら服するのはほとんど「奇蹟中の奇蹟」であること。
 なお、これらに加えて次の如きネオリベラリズムの直接の所産としての圧倒的な趨勢に言及する必要があろう。(A)司法の行政への従属と一体化、癒着(B)法曹三者一体化、即ち最高裁・検察・日弁連の実質的合体の進行による法曹界丸ごと総がかりでの「司法自体のネオリベラリズム権化」(本紙の制約を考慮して、以下主な事実のみ羅列する)◎言語指示地検の法務省への「移譲」◎ド素人による重大刑事犯限定の「人民裁判」(裁判員制度が2009年度導入)◎マスメディア「良心派弁護士」バッシングキャンペーンの底なしエスカレーション。

四 ネオリベラリズムとは何か
(1)ネオリベラリズム(以下NLと略)に理論があるのか ーNL慣用語辞典精読ー
 慣用語は皆様以前からイヤと言うほど注ぎ込まれていてスッカリおなじみ。どころかご愛用の方々も少なくありません。早い話、かの偉大な障害者権利条約こそ、このNL語彙(思想?理論?)の宝庫ではないか!
 さて精読は「効率的」(これもNL用語?)にやります。
(ア)「努力する者は必ず報われるのです。皆さんが全員ビルゲイツになれるのです」(竹中平蔵蔵相、2001年第一回タウンミーティング、青森)これこそ、NLの宣言たり綱領たる文章。NL「理論」のタネもシカケもまず80%はこれに尽きる。何故か。「必ず」となっているから。即ちこの命題から、次のトンデモNL理論が飛び出す。→「報いられていない者は必ず努力しなかった者である」この帰結は何人にも反論不可能であり、かつ絶対的な妥当性を有する。
 ついで、さらに驚くべき帰結が自然に導かれる。即ち「努力したかしなかったかは、報いられているか否かだけで判断される」これ又批判の余地がない。報いられていることが努力したことを証する唯一の要件なのです。
 同様にして第三の帰結「報いられていない者は努力しなかった者だけである」→「必死で努力したが報いられなかった。又は努力したかったがどうしてもできず・・・」は背理であり、論理的にあり得ないことになる。
 こうなると、最早この「理論」なるものがおよそあらゆる人間的事象に真っ向から反し、全世界ではるか昔から事実によって反駁されてきた、又これからも反駁され続ける如き荒唐無稽な背理そのものであり、正しく犯罪的なデマゴギーであり、ただのペテンに過ぎないことは何人にも明らかであろう。
 皆さん、そうじゃありませんか?NLなんて皮をちょっとむいただけで、もうこんな代物だったのだ!! そして、しかも、にもかかわらず、正に全地球上を徘徊し、信じられない暴威をほしいままにしているんだ!!
 先を続けてみよう。
「報いられる」「報いられている」とは?これも簡単。つまり「マネー」。人間の理想とも美しいもののすべてとも、学問芸術、文化とも一切全然関係のないただの数字だけ!!
 つぎ!「報いられていない」とは?「マネーのないやつ」つまり貧乏人、贅沢のできない奴ら、ホームレス、失業者、ネットカフェ難民、過労自殺するアホ、こいつらが報われていない人間イコール努力しなかった人間!
(オカモトさん言い過ぎてません?そこまで言っていいの?)いや、これこそが「報われた者」の掛け値なしの本音なのです。彼らが公言していることなのです。
 次に進みましょう。「自己選択」「自己決定」(「自己責任」)はどうでしょう?
[定義1]人は努力するか、しないかを自己選択・自己決定する。言い替えれば報いられることにするか、それとも報いられで泣きを見るかを人は自己の自由な、無制約な意思のみによって自ら選択し、決定する。またそうできることがおよそ人間存在なるものの根本規定である。
 以上が愛好者・ファン少なからぬらしい、この魅力的な用語の真の、唯一の意味内容です。あとでこの二語が唯一どころではなく、実に「人間は神様並でなければならない。即ち、あらゆる未来・可能不可能な将来をすべて見通す力を予め賦与されている」ことすら、「自己選択・自己決定」に含意されていることをNLの生んだ実例に基づいて存分に証明致しましょう。
 さて「自己責任」。これはとても簡単。「自分で決めたことの責任は自分でとる。全部とる。とらなければならない」というあったり前のこと。ところが、ここから又こうなってくる!「およそ人は自分が今どうなっているか(=報いられているか、いないか、餓死するか過労死するか)、何から何まで自分の責任。ヒトのせいとか、社会が悪いからとか言わせやしねえぞどうです、分かりましたか?
       一 おことわり
 私は古稀に近い老人であるからして、皆様を難渋させている蒼古な文体はひとえにトシのせいです。一方、昔の文士の伝統的難読原稿並の私の手書き原稿。それが〆切りギリギリに、FAXで「おりふれ」編集部に飛び込むのですから、多少の「原文との不一致」は例の「受忍の範囲」。正誤表などヤボなことはとてもとても・・・。しかし、この前の敬慕する埴谷雄高氏からの借りもの、こればかりは何としても泉下十年の氏に申し訳がたちません。で、次のとおりです。『鞭と独楽』からの「・・・この鞭がなければ、自分ひとりでは走っていられない」は、「立って・・・」となります。

二 本稿の意図の再確認
 前号前置きのとおり、「事態が今やその理論的検討を不可欠かつ不可避であることを明らかに要請している」ところの「ネオリベラリズムなるものの(中略)平明で具体的な本質的解明」への初めての本格的試み、であって如何なる意味でも「地業研」いわんや「反貧困ネットワーク」への批判それ自体を意図するものではない。誤解を避けるため再言する。

三 (上)への補足
 最早実証的データは不要に等しい。但し次の補足のみ行う。
1)急増する高齢者世帯の生保受給総数は、2003年度以降絶対減に転じている。
2)かの大阪市の驚くべき「創意工夫」を紹介する。即ち多年の慣行として各地で確立している便法に対し、市は支援団体所在地を住所地として登録して生保を受給していた大量の釜ヶ崎の住民を「虚偽、違法」な登録の故を以て一挙に抹消=生保剥奪を強行した。その根拠は言うまでもなく「生活保護法違反」の一片の国家官僚作の通達である。
3)「対象文」が詳述する「確定勝訴判決例」について
 それは以下のとおり極めて限定された、がんじがらめの制限下にある。即ち①提訴そのものがほとんど不可能に近いこと ②勝訴→確定は稀有の奇跡に等しいこと ③司法的救済の効果は勝訴者本人にのみ及び、一般遡及力を持たないのみならず、行政がこれにすら服するのはほとんど「奇蹟中の奇蹟」であること。
 なお、これらに加えて次の如きネオリベラリズムの直接の所産としての圧倒的な趨勢に言及する必要があろう。(A)司法の行政への従属と一体化、癒着(B)法曹三者一体化、即ち最高裁・検察・日弁連の実質的合体の進行による法曹界丸ごと総がかりでの「司法自体のネオリベラリズム権化」(本紙の制約を考慮して、以下主な事実のみ羅列する)◎言語指示地検の法務省への「移譲」◎ド素人による重大刑事犯限定の「人民裁判」(裁判員制度が2009年度導入)◎マスメディア「良心派弁護士」バッシングキャンペーンの底なしエスカレーション。

四 ネオリベラリズムとは何か
(1)ネオリベラリズム(以下NLと略)に理論があるのか ーNL慣用語辞典精読ー
 慣用語は皆様以前からイヤと言うほど注ぎ込まれていてスッカリおなじみ。どころかご愛用の方々も少なくありません。早い話、かの偉大な障害者権利条約こそ、このNL語彙(思想?理論?)の宝庫ではないか!
 さて精読は「効率的」(これもNL用語?)にやります。
(ア)「努力する者は必ず報われるのです。皆さんが全員ビルゲイツになれるのです」(竹中平蔵蔵相、2001年第一回タウンミーティング、青森)これこそ、NLの宣言たり綱領たる文章。NL「理論」のタネもシカケもまず80%はこれに尽きる。何故か。「必ず」となっているから。即ちこの命題から、次のトンデモNL理論が飛び出す。→「報いられていない者は必ず努力しなかった者である」この帰結は何人にも反論不可能であり、かつ絶対的な妥当性を有する。
 ついで、さらに驚くべき帰結が自然に導かれる。即ち「努力したかしなかったかは、報いられているか否かだけで判断される」これ又批判の余地がない。報いられていることが努力したことを証する唯一の要件なのです。
 同様にして第三の帰結「報いられていない者は努力しなかった者だけである」→「必死で努力したが報いられなかった。又は努力したかったがどうしてもできず・・・」は背理であり、論理的にあり得ないことになる。
 こうなると、最早この「理論」なるものがおよそあらゆる人間的事象に真っ向から反し、全世界ではるか昔から事実によって反駁されてきた、又これからも反駁され続ける如き荒唐無稽な背理そのものであり、正しく犯罪的なデマゴギーであり、ただのペテンに過ぎないことは何人にも明らかであろう。
 皆さん、そうじゃありませんか?NLなんて皮をちょっとむいただけで、もうこんな代物だったのだ!! そして、しかも、にもかかわらず、正に全地球上を徘徊し、信じられない暴威をほしいままにしているんだ!!
 先を続けてみよう。
「報いられる」「報いられている」とは?これも簡単。つまり「マネー」。人間の理想とも美しいもののすべてとも、学問芸術、文化とも一切全然関係のないただの数字だけ!!
 つぎ!「報いられていない」とは?「マネーのないやつ」つまり貧乏人、贅沢のできない奴ら、ホームレス、失業者、ネットカフェ難民、過労自殺するアホ、こいつらが報われていない人間イコール努力しなかった人間!
(オカモトさん言い過ぎてません?そこまで言っていいの?)いや、これこそが「報われた者」の掛け値なしの本音なのです。彼らが公言していることなのです。
 次に進みましょう。「自己選択」「自己決定」(「自己責任」)はどうでしょう?
[定義1]人は努力するか、しないかを自己選択・自己決定する。言い替えれば報いられることにするか、それとも報いられで泣きを見るかを人は自己の自由な、無制約な意思のみによって自ら選択し、決定する。またそうできることがおよそ人間存在なるものの根本規定である。
 以上が愛好者・ファン少なからぬらしい、この魅力的な用語の真の、唯一の意味内容です。あとでこの二語が唯一どころではなく、実に「人間は神様並でなければならない。即ち、あらゆる未来・可能不可能な将来をすべて見通す力を予め賦与されている」ことすら、「自己選択・自己決定」に含意されていることをNLの生んだ実例に基づいて存分に証明致しましょう。
 さて「自己責任」。これはとても簡単。「自分で決めたことの責任は自分でとる。全部とる。とらなければならない」というあったり前のこと。ところが、ここから又こうなってくる!「およそ人は自分が今どうなっているか(=報いられているか、いないか、餓死するか過労死するか)、何から何まで自分の責任。ヒトのせいとか、社会が悪いからとか言わせやしねえぞどうです、分かりましたか?一 おことわり
 私は古稀に近い老人であるからして、皆様を難渋させている蒼古な文体はひとえにトシのせいです。一方、昔の文士の伝統的難読原稿並の私の手書き原稿。それが〆切りギリギリに、FAXで「おりふれ」編集部に飛び込むのですから、多少の「原文との不一致」は例の「受忍の範囲」。正誤表などヤボなことはとてもとても・・・。しかし、この前の敬慕する埴谷雄高氏からの借りもの、こればかりは何としても泉下十年の氏に申し訳がたちません。で、次のとおりです。『鞭と独楽』からの「・・・この鞭がなければ、自分ひとりでは走っていられない」は、「立って・・・」となります。

二 本稿の意図の再確認
 前号前置きのとおり、「事態が今やその理論的検討を不可欠かつ不可避であることを明らかに要請している」ところの「ネオリベラリズムなるものの(中略)平明で具体的な本質的解明」への初めての本格的試み、であって如何なる意味でも「地業研」いわんや「反貧困ネットワーク」への批判それ自体を意図するものではない。誤解を避けるため再言する。

三 (上)への補足
 最早実証的データは不要に等しい。但し次の補足のみ行う。
1)急増する高齢者世帯の生保受給総数は、2003年度以降絶対減に転じている。
2)かの大阪市の驚くべき「創意工夫」を紹介する。即ち多年の慣行として各地で確立している便法に対し、市は支援団体所在地を住所地として登録して生保を受給していた大量の釜ヶ崎の住民を「虚偽、違法」な登録の故を以て一挙に抹消=生保剥奪を強行した。その根拠は言うまでもなく「生活保護法違反」の一片の国家官僚作の通達である。
3)「対象文」が詳述する「確定勝訴判決例」について
 それは以下のとおり極めて限定された、がんじがらめの制限下にある。即ち①提訴そのものがほとんど不可能に近いこと ②勝訴→確定は稀有の奇跡に等しいこと ③司法的救済の効果は勝訴者本人にのみ及び、一般遡及力を持たないのみならず、行政がこれにすら服するのはほとんど「奇蹟中の奇蹟」であること。
 なお、これらに加えて次の如きネオリベラリズムの直接の所産としての圧倒的な趨勢に言及する必要があろう。(A)司法の行政への従属と一体化、癒着(B)法曹三者一体化、即ち最高裁・検察・日弁連の実質的合体の進行による法曹界丸ごと総がかりでの「司法自体のネオリベラリズム権化」(本紙の制約を考慮して、以下主な事実のみ羅列する)◎言語指示地検の法務省への「移譲」◎ド素人による重大刑事犯限定の「人民裁判」(裁判員制度が2009年度導入)◎マスメディア「良心派弁護士」バッシングキャンペーンの底なしエスカレーション。

四 ネオリベラリズムとは何か
(1)ネオリベラリズム(以下NLと略)に理論があるのか ーNL慣用語辞典精読ー
 慣用語は皆様以前からイヤと言うほど注ぎ込まれていてスッカリおなじみ。どころかご愛用の方々も少なくありません。早い話、かの偉大な障害者権利条約こそ、このNL語彙(思想?理論?)の宝庫ではないか!
 さて精読は「効率的」(これもNL用語?)にやります。
(ア)「努力する者は必ず報われるのです。皆さんが全員ビルゲイツになれるのです」(竹中平蔵蔵相、2001年第一回タウンミーティング、青森)これこそ、NLの宣言たり綱領たる文章。NL「理論」のタネもシカケもまず80%はこれに尽きる。何故か。「必ず」となっているから。即ちこの命題から、次のトンデモNL理論が飛び出す。→「報いられていない者は必ず努力しなかった者である」この帰結は何人にも反論不可能であり、かつ絶対的な妥当性を有する。
 ついで、さらに驚くべき帰結が自然に導かれる。即ち「努力したかしなかったかは、報いられているか否かだけで判断される」これ又批判の余地がない。報いられていることが努力したことを証する唯一の要件なのです。
 同様にして第三の帰結「報いられていない者は努力しなかった者だけである」→「必死で努力したが報いられなかった。又は努力したかったがどうしてもできず・・・」は背理であり、論理的にあり得ないことになる。
 こうなると、最早この「理論」なるものがおよそあらゆる人間的事象に真っ向から反し、全世界ではるか昔から事実によって反駁されてきた、又これからも反駁され続ける如き荒唐無稽な背理そのものであり、正しく犯罪的なデマゴギーであり、ただのペテンに過ぎないことは何人にも明らかであろう。
 皆さん、そうじゃありませんか?NLなんて皮をちょっとむいただけで、もうこんな代物だったのだ!! そして、しかも、にもかかわらず、正に全地球上を徘徊し、信じられない暴威をほしいままにしているんだ!!
 先を続けてみよう。
「報いられる」「報いられている」とは?これも簡単。つまり「マネー」。人間の理想とも美しいもののすべてとも、学問芸術、文化とも一切全然関係のないただの数字だけ!!
 つぎ!「報いられていない」とは?「マネーのないやつ」つまり貧乏人、贅沢のできない奴ら、ホームレス、失業者、ネットカフェ難民、過労自殺するアホ、こいつらが報われていない人間イコール努力しなかった人間!
(オカモトさん言い過ぎてません?そこまで言っていいの?)いや、これこそが「報われた者」の掛け値なしの本音なのです。彼らが公言していることなのです。
 次に進みましょう。「自己選択」「自己決定」(「自己責任」)はどうでしょう?
[定義1]人は努力するか、しないかを自己選択・自己決定する。言い替えれば報いられることにするか、それとも報いられで泣きを見るかを人は自己の自由な、無制約な意思のみによって自ら選択し、決定する。またそうできることがおよそ人間存在なるものの根本規定である。
 以上が愛好者・ファン少なからぬらしい、この魅力的な用語の真の、唯一の意味内容です。あとでこの二語が唯一どころではなく、実に「人間は神様並でなければならない。即ち、あらゆる未来・可能不可能な将来をすべて見通す力を予め賦与されている」ことすら、「自己選択・自己決定」に含意されていることをNLの生んだ実例に基づいて存分に証明致しましょう。
 さて「自己責任」。これはとても簡単。「自分で決めたことの責任は自分でとる。全部とる。とらなければならない」というあったり前のこと。ところが、ここから又こうなってくる!「およそ人は自分が今どうなっているか(=報いられているか、いないか、餓死するか過労死するか)、何から何まで自分の責任。ヒトのせいとか、社会が悪いからとか言わせやしねえぞどうです、分かりましたか? (続きは次号。次号で完結)


        
       

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