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障害をこえてつながろう!

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   編集部から 先月号でお知らせしたように、反ー貧困ネットワーク主催の集まりが「障害をこえてつながろう!6.21東京集会」「もうガマンできない!広がる貧困 人間らしい暮らしを求めてつながろう7.1東京集会」と続けてもたれました。今号では6.21集会を紹介します。集会の様子や内容は、パネリストの1人として「ベーシック・インカム」という方法を提起した岡部耕典さんのリソースセンターいなっふのサイトhttp://www.eft.gr.jp/money/070621  で見ることができます。

石井真由美

 私にとって、こんなにボリュームのある集会に参加したのは初めてでした。
 障害の種別をこえて、いや障害のあるなしの区別もこえて、いやいや日本という国の枠もこえて、たくさんのシンポジストが発する具体的な体験談と歴史、現状、メッセージ、暴力的ではないズシンとくる怒りや痛み。皆それぞれが、何かを得よう、何かを超えようと、持っている力や勇気、時として忍耐をふりしぼっている姿や言葉から、多くの刺激を受けずにはいられない。
 分かってほしいという欲求と分かりたいという欲求。そう、本当は「分かりたい」欲求が自分の中に強くあることを感じた。
 私が社会参加する時、どうしても「精神医療ユーザー」という立場でしか、まだ世の中に立ち位置が作れていない。本当は、私は丸ごと精神障害者だったり、ユーザーだったりするわけではないけれど、あまりにも病歴が長く、適当なことを言ってお茶をにごせる履歴ではとうになくなっている。しかも現在、仕事とか主婦とか、世間に通る肩書きがないから、「どこの所属ですか?」「何をしてらっしゃるのですか?」「お仕事は?」とか聞かれることの多い社会でやっていくためには、どんなに烙印を押されても、私は精神障害という面でしか立てない。だからこの面を受け入れてくれるところにしか参加できなくて、世界はなかなか広がらない。
 じゃあ、どうすれば私はもっとのびのびと外に出て、堂々とさまざまな場へ参加できるようになれるか考えると、ストレートに「分かってもらう」ことだと考える。私のことを分かってもらう、あるいは、精神障害者の置かれている現状や痛みを分かってもらう。いかに理不尽な扱いや差別を受けているか分かってもらうことに、エネルギーを注ごうとする。・・・・・・・・・

以下、全文は、おりふれ通信 7月号でお読み下さい。ご購読連絡先:FAX042-524-7566、立川市錦町1-5-1-201 おりふれの会

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拷問なき明日へ:拷問等禁止条約委員会と第1回日本審査

東京精神医療人権センター  小林信子

 2007年5月、ジュネーブで第38会期拷問等禁止条約の日本政府報告書の審査があり、5月18日には「拷問等禁止委員会」の結論及び勧告が出た。(まだ政府はこれを正式には発表していない) 
 読者の皆さんにはこれまで「センター」が拷問等禁止条約のNGOによるオールタナティブレポート作成に参加したことを系統的には報告していなかったので、報告をしておく。

1)これまでの経過 
 日本は1999年6月29日にこの条約を批准した。(おりふれでは同年10月~合併号で、永野弁護士による解説文掲載)この条約は被拘禁者の拷問や非人道的な処遇等禁止で、精神病院もその対象に入っているという重要なものである。批准国は1年以内に委員会に報告書を送らなければならないことになっているが、政府は5年以上たってもそれを履行していなかった。
政府レポートの提出をにらんで、それに対する代替レポートを作成しようという運動がNGOである監獄人権センターや、アムネスティー日本委員会によって進められ、被拘禁者の人権擁護という共通項目で「センター」も参加を要請された。受刑者問題を扱う監獄人権センター、入管問題を扱う入管問題調査会そして私達の「センター」のこじんまりとしたネットワーク、拷問等禁止条約の頭文字をとってCAT ネットを約2年前に結成した。2ヶ月に1回の会議は、私よりずっと若い人たちが人権問題に精力的に取り組んでいている様子からとても刺激的で有用だった。2005年、国がやっと政府報告書を作成し、公表した。私達も2006年から毎月会議を持ち、外務省や日弁連とも連絡を取りながらこちらのレポート作成準備に入ったのだった。

2)レポート作成までの顛末
 まず、政府のレポートを入手して読むことから始めなければならない。政府レポートは厚いものだったが、その2/3は、条約に関連する国内法を紹介しただけというお粗末なものだった。私たちNGOもそれぞれに対応してレポートをただ書けばよいというものではなく、短く簡潔に、委員に読んでもらう工夫が不可決なのだ。それらの研究をしているイギリスのNGOの解説書や、個々の知人のネットワークを活用してレポート作成法を研究することから始めた。CATを専門に扱うNGOがジュネーブにあったり、アムネスティ日本やインターナショナルに助言をもらったりと「日本のNGOもすごいなあ・・」と感嘆しきりの日々だった。作業プログラムを作りそれにしたがって、日本文、今年の1月にはその英語化と進んでいった。3月には、委員会のメンバーであるグロスマン氏が京都に来るし、しかも日本担当かもしれないというので、日弁連とともに会いに行ってプレゼンテーションをして“印象付け”?作業もした。私のスペイン語もちょっと役立った。
 そういう経緯で私も5月4日にはジュネーブへ行く予定にしていたのだが、入院中の父がその2日前に危篤となりやむなくキャンセルしなければならなかった。大きな機会を失ったし、複雑な精神医療問題は取り上げられないだろうと敗北主義が頭をもたげたが、そうでもなかった。ジュネーブからはCATネットのメンバーが電話やメールで連絡してきて、「精神の質問が出ましたから起きていてください」という命令や、「外務省のデータとこちらのものと食い違いがあるのだけれど」と8時間の時差を越えてやり取りをした。というわけで、現地でのNGOミーティング前後の3日間はオンコールしていた。

3)「センター」が主張してきたこと
 1条 拷問の定義 精神的拷問を含むことの意義と公務員によるものであること→日本の精神病院は90%以上が私立病院。そこに働く精神保健指定医は、精神保健福祉法(法)に従って遂行する業務のみを“みなし公務員”と規定し、強制入院(拘禁命令)や行動制限の判断をする権限を与えている。これが拡大化している。医療保護入院における指定医の役割は、臨床現場の実際とは異なって、強制権限を行使していないから、みなし公務員でないとされている。
*昨年からの法改正で「特定医師」は12時間のホールディングパワーが可能となった→法の根幹にかかわること。今後どうしても議論しなくてはならないし、自由権規約でも追及しなければならない部分
 10条-1 拷問の禁止について、関与する医療職員、公務員等に充分訓練されること→そもそも精神保健指定医登録には、医学的研修カリキュラムしか義務付けられていない。人権教育や拷問禁止の教育は、登録後の指定医研修カリキュラムにも取り入れられていない。
 11条 抑留又は拘禁について、体系的な検討を維持する→隔離・身体拘束は精神保健指定医の判断のみによって行なう行動制限と考えられている。医者性善説に基づく法体系
 13条 拷問を受けたと主張する者が権限のある当局に申立てを行い迅速かつ公平な検討を求める権利確保→不服審査のための精神医療審査会というものがあるが機能していない。上級機関へのアピールが出来ない。特殊な日本の精神医療制度のため、審査委員メンバーと利益相反があるのではないか?
 16条 第一条に定める拷問には至らないが、残虐な、非人道的な又は品位を傷つける取扱いに当たり、かつ公務員その他の公的資格で行動する者により又はその扇動により若しくはその同意若しくは黙認の下に行われるものを防止することを約束→最も重要。身体的な「拷問」は影を潜めたかもしれないが、精神的「拷問」も大いに存在している。公立・私立を問わず精神病院の入院手続き・入院中の処遇や環境自体が「非人道的で品位を傷つける」ものにたくさん該当する。
刑事施設・入管・精神病院に共通な環境は、少ない人員と少ない予算で多人数を管理することが日本の特徴だから。 

4)委員会最終勧告の意義
 5月21日に公表された「結論と勧告」では、NGOの主張やそれ以上のものが盛り込まれた。慰安婦問題や代用監獄についての勧告を、新聞でお読みになった方も大勢いるだろう。精神医療については残念ながらたった1項だが、根源的なことを以下のように言及している。

勧告25.委員会は、私立の精神病院で働く精神科指定医が精神的疾患を持つ個人に対し拘禁命令を出していること、及び拘禁命令、私立精神病院の管理・経営そして患者からの拷問もしくは虐待行為に関する不服への不十分な司法的コントロールに懸念を表明する。
 締約国は公立及び私立精神病院における拘禁手続きについて、実効的かつ徹底した司法コントロールを確保するために必要なあらゆる措置を採るべきである。

 日本の精神医療制度は、国際的に見て先進国の間でも特異なものである。日本の屈折した歴史を背負い、メディカルモデルが支配する、私立病院に働く医師が行政の代行をして患者を拘禁していることは、理解できなかったのではないだろうか。
民事収容において、司法が関与しない制度を持つ国はイギリスと日本だけである。(アジア諸国は日本の精神保健法を移入したので除く)国際人権保障に合致した入院手続きについて論争を国内で再燃させる必要がある。
精神医療にとって拷問等禁止条約が重要なのは、中立公正で迅速な審査機関の設立や拷問防止のために国内・国際機関の立ち入り検査の制度保障と同時に、何をもって「非人道的で品位を傷つけるとり扱い」とするかという根源的な議論が要求されているからである。
なお拷問等禁止条約の解説書として「拷問等禁止条約をめぐる世界と日本に人権」監修:村井敏邦・今井 直(明石書店)をお勧めする。

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聖マリアンナ医科大訪問記

東谷 幸政(NPO わくわく PSW)
    
 川崎市にある私立医科大付属病院へ入院中のメンバーを見舞った。全く安否が伝わってこないので、状況を見るためだ。これまで入院していた病院からES(電気ショック)=M-ECT治療目的で転院したと聞いていた。・・・・・・

 横たわった彼は両手・両足が帯で縛られ、拘束されている。腰にはおむつがあてられている。声が出ない。口の中が乾き、唾液がどろどろになっている。水をやろうとしたら、水差しがない。話ができない状況だ。・・・・・・・

あまり渇きがひどい様子なので、何か欲しいものはないか聞くと、「りんごジュース」と、かすれ声で言う。看護師に、飲ませていいか聞くとかまわないということなので、売店に買いに行った。閉鎖病棟から外出し、もどってブザーを押すが、反応がない。10分ほどもインタフォンを何度も押していると、中から若い医師が2名現れる。そのうちの女性医師が、主治医が不在なのでと前置きする。「こちらの落ち度で、あなたを病棟に入れてしまったが、現在の彼の入院形態では、あなたは面会できない。会えるのは保護者と弁護士と福祉事務所のワーカーだけです。これは精神保健福祉法上の規定です。入院形態が何かも教えることは出来ない。したがって、治療の経過や方針については何も教えられない。以上です」という。・・・・・・・

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あと出しジャンケンの弁Ⅴ 障害者権利条約は光に面するか闇に面するか(承前)ー条約はそもそも何かを約束しているのか?ー 

岡本省三

一 承前
 前稿の課題(「拘束力」問題)は、そこでの予備的検討によって今やそもそも「課題」ですらあり得ないことをほぼ暴露した、と考える。
 一方、本紙の性格などの制約は未完部分の充分な補足を許さぬであろう。よって以下で最小限度の確認のみを行うに留める。
即ち①「階級支配装置にして幻想の共同体」との「国家」の古典的本質規定は依然として有効であること。②極めて多様な歴史的・理論的諸要因の結果と「しての「階級範疇の“不可視化”」。③ネオリベラリズム段階における「支配装置」の究極的完成。

二 条約はそもそも何であるのか
 最初にお断りする。本条約が「障害者の権利」条約であることに何かことさらに、特別の「画期的意義」を見出し得るかの如きハヤリの言説については、その不毛さの故にこれに触れることをしない。
 ご不満の向きにはさし当たり次の二書をおすすめする。『人権宣言集』『世界憲法集』(いずれも岩波文庫所収)
 人はそこに置いて、本条約、なかんずく「前文」中に現れる少なくとも8つの「人権条約・規約・憲章」の類に遥かに先行し、実に「マグナ・カルタ」(13世紀)に淵源するほとんど無数の「人類多年の苦闘の成果」(日本国憲法第97条)としての最広義の「人権法規定」が発生し、成熟し、そして完成に至っていることを見出し、しかもそれらがその根源的普遍性の故に、そもそも「障害者の除外=排除」などを許容しているはずもない、という当たり前すぎる発見に逢着するであろう。

 さて我々は何者か?我々の「第一規定」は何か?我々(精神病者・知的障害者のほぼすべて、身体障害者の相当部分)は、何よりもまずその属性によって「世」の嫌悪・忌避・嘲弄・恐怖などなどの対象たること、即ちいわゆるstiguma,prejudice(らく印・偏見のターゲット(的)犠牲者である。
 この「第一規定」=「社会的被規定性」から必然的に派生する結果として、「世間からの排除」、即ちいわゆる「差別」が我々を襲うこととなる。
 上述の如く、近代社会が「抽象的理念」=「法的カテゴリー」としては「実現」した「万人の平等・対等性」が、かくして現実的には我々から剥奪されている。(この「非人間化」の現実は「地域福祉施設の拡充」などがほとんど全く解決し得ない宿命として留まり続ける。)
 人或いは問うであろう。ー何を今更そんな当たり前のことを?その理由はまさに当の「権利条約」の本質そのものの解明が明らかにするであろう。
 条約は驚くべし!およそ「スティグマ・偏見」なる言葉を(これなくしては我々をそもそも語り得ないその言葉を)欠いている!
 そしてそのカラクリは、繰り返し頻出する「差別」なるコトバが、正に上の本質規定を全く喪失し、或いはより正しくは変質させられて、およそ別の代物へと「意味変換」されていることの結果である。では条約は一体何を説くのか?
 ☆「障害」概念の、「個人帰属性」から「社会的バリア」への決定的・致命的転換がこれである。
(元より「障害」が〔病者にあっては一義的に「障害」とは言えぬことにはここでは立ち入らない〕個々人が有する属性であること自体を条約が直ちには否定していないことはいわば当然であるが)この「転換」は次のことを意味するとされる。即ち、「社会」が必要な手段を講ずることによって「障害者」の「能力発揮」の障害、即ち社会的バリアを撤廃し消滅させさえすれば、「障害者」は支障なしに現存の「競争社会」に「参加」し、そして「普通人」と同じスタートラインに立って「努力」し、「報われる」ことができるのだ・・・と。
 この「教義」は、本条約の核心部分において「機会の平等」「自己選択」「自己決定」などなど、たしかどこかで頻繁に見受けられる用語で説かれている。
 さて、「社会的バリア」の撤廃・消滅を意味する「キーワード」としてのいわゆる「合理的配慮」(この拙劣な迷訳を、およそ次のように「意訳」する必要があろう。即ち「正義にかない、かつ必要な法的・制度的・物的諸条件の整備」と。)
 次に進もう。さて、こうなるとかの「合理的配慮」の「徹底」「完了」はどうやら論理的かつ実質的に(少なくとも本条約では!)「障害の個人帰属性」そのものの無意味化、ないし否定(=「障害は無いも同然」)との背理に帰着しはしないであろうか。
 そしていよいよこうなれば、更には「障害者概念そのもの」の無化・蒸発、従ってそもそも「らく印・偏見」など最初から持ち出すまでもなかった!ことになるまいか?!

三 総論
 かくて本条約は、どうやら我々にとって最悪の「鬼っ子」として生まれたのではないか。さらにそれは実に「ネオ・リベラリズム」の貫徹そのものではないのか!

(追記)いわゆる「強制医療」問題については次を参照せよ。メアリー・オヘイガン著、長野英子他訳『精神医療ユーザーのめざすもの』(1999年、解放出版社)48・49頁

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