訪問看護始めました
訪問看護ステーション円(えん) 中嶋 康子
「健康とは、完全な肉体的、精神的及び社会的福祉の状態であり、単に疾病又は病弱の存在しないことではない。」看護学校の最初に教わったWHOの健康の定義である。そして、看護とは健康な状態により近づけるためのお手伝いをする仕事であると教わったような気がする。まじめな(?!)看護学生だった私は、素直にそれに従い患者さんたちがより健康な状態になるように「援助」「指導」することを仕事だと思っていた・・
昨年の9月から訪問看護ステーションで仕事を始めた。それまで自分の中にあった漠然とした想いや、実習を通じてのイメージはあったが、実際に働き始めて訪問を重ねることで見えてきたことはとても奥の深いものと感じている。
現実的に「訪問看護」とはいっても、まだ一般的な認知度は低く「看護婦(師)さんが来て、何をしてくれるの?」「ヘルパーさんとどこが違うの?」といったことをよく聞かれる。医療的な処置ができることや、医学的な知識があることがヘルパーさんとの違いを示す一つの目安にはなるのだろう。指導者たちは、「訪問看護でできないことは何もない」と言って在宅での幅広いサポートができることをアピールしている。医療が進み、費用の問題やQOLの考え方の広がりなどにより、在宅でもかなり高度な医療を受けながらの生活をしている人たちが増えてきている。
そのような状況の中、実際訪問をしていて一番に感じることは、それぞれの人たちの生活の幅の広さであり、奥行きの深さである。それは、居住空間ひとつをとってみても、食生活をとってみてもいえることであり、多くは問題点としてあがってきていることである(だから訪問の依頼があるのだ)が、ある種感動的なものがある。モノがあふれ、居住空間が極端になくなっている家に住んでいる人(「ごみ屋敷」などといわれることもある)がいる。さぞ不便だろう、片付いたら楽だろうと思うのだが、そうなるまでの理由や、歴史(などというと少々大げさだが)がある。用意されなければまったく食事をせずに何日も過ごしてしまう人、反対に糖尿病といわれていても朝からファミレスでベーコン・ソーセージの入ったセットを食べたと教えてくれる人。もちろん「これはちょっと」と心配されることもあるが、皆が皆それぞれの生活をしていてたくましいなと感じることが多い。この生活を見ると、病院の中でより健康的な生活を目指して「援助」「指導」していたこととのギャップに思わず笑ってしまう。
また、訪問する自分自身の心構えが立場により違うことに気がついた。今は、全く施設などの後ろ盾のないサービス業者である。相手に断られたら次の訪問はない。そして、現場は常に相手の生活の場である。むやみやたらとかき乱しては失礼になる。
だからといって、何もしなければ何のための訪問かと問われるだろう。「訪問してもらってよかった。」「またお願いします。」と言われるようにがんばらなければならない。
はじめてから半年あまり、何とか年度を越すことができた。今はまだ、漠然とした「感じ」しか書くことができないが、今後経験を重ね、もう少しきちんとした実践の報告をしたいと思う。
*WHOの健康の定義は1998年から見直しの方向になっている。文頭の定義は1951年のものである。
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