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知的障害者の「バディシステム構築とIPP作成事業」

国際医療福祉大学教員 村上満子

 3月26日、斎藤明子さんのNPOコミュニティサポート研究所が、独立行政法人福祉医療機構(高齢者・障害者福祉基金)の助成を受けて取り組んだ「バディシステムの構築とIPP作成事業」の完了報告会に出かけた。50名ほど入る会場は、全国のプロジェクト参加者のほか、関係者で立ち見が出るほどの盛況ぶりであった。バディ発表者は、たぶん慣れない人前ということでずいぶん緊張されていたけれど、プロジェクトからきっといろんなことを学ばれ、感じられて、みんなに伝えたいことがたくさんあったのだろうと思う。自信と勢いを感じる発表だった。

報告会は、まずバディシステムとIPP(アイピーピー)について簡単な説明があり、その後に事業目的、プロジェクト内容について述べられた。事業の目的は3つあり、一つは、知的障害者が自分のやってほしいことをきちんと伝えられるようにすること、二つ目は、やってほしいことを伝えるためのIPPをつくること、三つ目に、バディと呼ばれる知的障害者リーダーが仲間を助けて必要なサービスを受けられるようにすることである。

IPPはIndividual Program Plan の略で、米国カリフォルニア州ではサービス支給申請書・受給者証でもある。これから3年間に必要なサービス、例えば、住むところ、余暇にすること、健康、仕事や日中活動などを書いて、本人もケースワーカーもこれでいいと思ったらそれぞれ署名する。次年度からIPPに書いてあるサービスを受ける。バディ(buddy)は「仲間、親友、ボランティア支援者」を意味するが、ここでは「ピープルファーストや本人活動に参加している人」や「仲間がサービスを受けるときに自分の意見を言えるように助ける人」のことを言う。また、バディシステム(buddy system)とは、スポーツなどで事故を防ぐために二人一組のペアで互いに注意を払うことを指すが、この事業では「バディが活躍できるようになっている仕組み」として使われる。具体的には、「研修(よいバディになるような勉強が)できる」、「仲間を助けるために働いたときには交通費やアルバイト代がでる」、「支援者がほしいと思うバディは支援者を選べる」といったことである。
これまで、知的障害者は「自分の意見がありません」、「言葉がありません」と言われて主体性を無視されてきた。どんなサービスが必要なのかは本人ではなく家族や行政の担当者で勝手に決めていた。本人の意見をきちんと聞かずにサービスを提供する仕組みでは、自立は逆に害されてしまう。当たり前のことだが、現実はこうして自立の芽が摘まれてきた。

プロジェクトでは、IPPの作成を通して自分はどんなことがしたいのか、そのためにはどんなサービスが必要なのか、研修を受けたバディと一緒にまとめた。実際に、行政担当者に自分の意見を伝えるにしても、自分が将来どうなりたいのか、そのためには何が必要であるのかについては、事前に整理しておく必要がある。具体的には、IPPの段階で文書化して、それを読んで人に伝える練習をしておくことが大事なのである。
さらに当事者が、このIPP作成を助けるバディ役を担うことにより当事者自身もエンパワメントされる仕組みになっている。彼らは仲間を助けられるバディになるために研修に参加してIPPを勉強した。プロジェクトの進行についても当事者本位を貫くために、当事者、支援者、サービス提供者がメンバーとなる実行委員会が設けられ、話し合いのもとに進められるよう工夫された。

自立支援の成果は、サービス受給者が充実した生活をしているか、夢をもって生きているか、今の生活に満足しているかで評価されなければならない。作成されたIPPから見えてきたことは、ピープルファーストや本人活動に参加している協力者は、充実した生活をして夢をもっているということ、本人が満足して生活しているということが明らかになったことだ。言い換えれば、当事者が主体的であることを周りで保証することが、サービス提供の前提であり、それが自立支援なのである。

報告会の最後に、政府(中央・地方)に対して次の5つの提言がされた。そうだと思えることばかりだ。
①「できる・できない」の判定は知能指数(IQ)で枠を作り、その枠の中に人間をはめ込むようなやり方はやめてください。
②生活や環境の変化で、できたことができなくなったり、夢を実現したいという要素を考慮したサービスが必要です。つまり、一般人と同じように外的要因の影響を受けることもあれば、そのなかで成長も発達もするということをわかってほしい、その上でサービスメニューを考えてほしいということです。
③「仲間だから話せる」ことが知的障害者にはあります。バディがリラックスして聞くから、本当の気持ちがわかるのです。
④介護保険では高齢者の世話をする人がケアマネの質問に答えてしまうことが多いそうです。でも障害者の場合、本人でない人に聞いてサービスを決めるのは絶対にノーです。家族が答えられるのは過去のエピソードくらいです。
⑤制度を作ったり、政策を決めるときに当事者や当事者団体から意見をすいあげる仕組みをみんなで作り、提案しましょう。
障害者自立支援法は、利用者本位を理念としているが、サービスを利用する本人が自分の意見を言えるような環境や、バディのような人が活躍できるように交通費やアルバイト代の支給、支援者がほしいと思うバディには支援者を選べるといった仕組みづくりについては整備されていない。本事業の成果を提案していくべきだ。
精神障害者であっても、本人の主体性を保証してエンパワメントできるバディシステムやIPPは有用であろう。ただ、精神医療の関与があり、主体的であることを保証する仕組みがもっと複雑ではないかと思う。上手く言えないが、幻聴や妄想があって一見変わった言動があったとしても、どうしたいか、どうありたいかを主張して実現していくこと、主体的であることは保証されなければならない。しかしながら多くの場合、治療の名の下に制裁を受け、さらに主体性が奪われている。精神障害者は自分らしさを実感したり、自分の考えを表出することが困難になりやすい状況におかれている。これらを踏まえてバディシステムやIPPを取り入れていくことはできると思う。

 以前から知的障害者の本人活動には興味をもっていたものの、知る機会がなかった。主体的にサービスを利用して、自分らしく夢をもって生きている彼らはむしろ知的であり、何が知的障害なのかわからなくなった。精神障害でも同じことになるのだろう。障害がなくても主体的に生きることは難しい。バディシステムやIPPは本人の主体性を保証するひとつの方法であり、今後の有効利用が期待される。

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中国のある精神病院“事情”その2 中国公安部「安康医院」参観報告

司馬 両々

<編集部から>前号で、日本の大学院で刑法を勉強されている留学生の司馬さんに、「中国のある精神病院“事情”」として一般入院先の市立病院の報告をしていただきましたが、今回はその続き公安部所属病院のレポートです。

場所 中国観光地として有名である都市から30キロ位の田舎にある。さらに国道から3、4キロ離れていて、場所的にはかなり不便なところである。しかし、埃だらけの田舎道の突き当たりに、別世界みたいな存在としてある。ここは、中国の公安部所属の「安康医院」(司法精神病院の通称・編集部注)である。後ろは山で、前のほうは中国の古典式の庭が作ってある。

登場人物 接待した人は医務官課長の人物である。最初持ったイメージは中国の典型的な官僚であるが、話しているうちに、印象はちょっと変わって来た。やはり相当な知識をもっている医者だと思った。

入院要件 司法入院(裁判所・検察)、行政入院(監獄・警察)と民事入院(日本における医療保護入院)

入院の判断基準 基本的に自傷と他害のおそれではなく、確実に違法・犯罪行為を行った人に対する鑑定をしてから、入院させる。(司法と行政による入院の明確な区別はないようである。)

病床数 500床(2005年11月現在) 2004年の300床と比べると、大幅に増加したそうであるが、これからも増える傾向が見える。国の予算の縛りなどはそんなに厳しいものではなく、患者が増えれば、物理的な環境が許すかぎり、ベットが増えるのは可能であろう。

予算 今年の予算は2000万人民元(換算すると三億円である)

法的根拠 ①杭州市人民代表大会(地域的立法機関)の地方法
②全国人民代表大会(全国最高立法機関)では、中国精神衛生法を積極的に制定するように努力しているが、今現在15回の法案改正案に至っているだけで、まだ施行の見込みがない。刑法学会もそのような議論を聞いていない。
③今現在各省・市は各自の法制定活動によって、それぞれ違う。各省が統一するのを辛抱強く待たなければならない。

退院手続き ①民事入院(250名前後) 安康病院とは本来強制入院の精神病院であるが、民事入院も受け付けている。民事入院は相当簡単に行なわれているようである。家族・引き受ける人が居れば、寛解期に入った患者は何時でも退院できるようである。
②行政・司法入院(250名前後)殺人などの重大行為に対して、最低3年間の入院が必要だと病院側は思っている。(法的根拠は別として、病院側が勝手に決めている)引き受ける人がいれば、三人の精神科医 の判断によって、退院させることができる。この判断の基準は、現在の患者の精神状況だけではなく、 社会への危険性の予測も入っている。具体的な尺度は教えて貰わなかった。
 その一方、家族や引き受ける人が居ない場合は、病院側は患者を退院させないケースがたまにある。一番長い人は入院50年とのこと。

内部参観 病棟は五つほどで庭付きである。主建物の横にある一番近い男子病棟の中を見に入った。ちょうど午後2時前後で、暖かい良い天気だった。患者さんと看護師・精神科医みんなが庭の中でのんびりしていた。患者たちは統一した縦じまの患者服を着て、草の上に横になったり、座ったりしていた。精神科医か男性の看護師かよく分からないが、一人立って、もう一人は座ってタバコを吸っていた。ほとんど話はしておらず穏やかな午後を過ごしている光景だった。

配置図 
     │病棟│  庭    それから病棟に入った。最初の印象は天井が高いこと。
    │観察棟 │        かなり高かったのである。
      玄関

                  玄関
│   │病室│病室│医師室││病室│病室│病室│病室│病室│
│食堂│            回   廊                  │
│   │ 給食室 │ ナース室│保護室│保護室│保護室│病室│

 病室は全員ベッドである。ベッドの隣に小さい棚があって、全部施錠されている。一つの病室に8-10個ベッドがあり、患者たちは外の芝生で休んでいるので、開放感と明るさがあった。しかし、
精神病院として清潔すぎて、不思議な感じがする。ナースステーションの看護師を見ると、かなり小柄で若い女性だった。
 気になるのは保護室である。
    
                   │鉄門│ベッド│便座│
  ここは施錠している鉄の門 │鉄門│ベッド│便座│
                   │鉄門│ベッド│便座│

 保護室は当時二人入っていた。投薬されたらしく静かに寝ていた。しかし古い鉄の扉で、外から施錠されるため、患者にとっては決して安全な場所といえないであろう。廊下から保護室内が一目瞭然のため、通風が良いであろうが、プライバシーは全く考えられていない。多くの場所は防犯カメラが設置されていた。観察棟の二階にあるカメラをコントロールする専門職が居て、24時間この病棟の各カメラを切り替えながら監視している。

私見
①ハード面から言えば、施設の内部はあまりにも綺麗で、不思議な感じがする。この施設と広がっている周囲との対比が激しすぎて、政府が思い切ってこの施設を作った感じがしないではない。しかし、施設の中に清潔感があるのは良いことだが、私物など全然ないのはちょっと違和感がある。
②ソフト面からすると、精神保健福祉法が立法されていないことが一番大きな問題だと思う。地域的な法律があるが、入退院などについての細かい尺度がないため、すべての準則と解釈が病院側の判断に委ねられているのはあまりにも危険なことであろう。
③司法鑑定について、中身について考察できないが、単に鑑定時間から見ると、短期間で簡単な鑑定しかなされないようであろうと思う。
④今は中国の精神保健法の立法過程にあるのだが、刑法学界においてはこの問題についてはかなり沈黙している。デリケートな問題なので、皆が慎重に研究しているのか、小さい問題なので、みんなが気にしていないのか、私にはよく分からない。


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書評 『統合失調症からの回復』 リチャード・ワーナー著 西野直樹・中井久夫監訳 岩崎学術出版社刊

共同作業所パオ職員  梅林 和夫

 まず始めに著者を紹介する。米国コロラド州ボルダー郡精神保健センター所長、コロラド大学助教授、精神科医師である。
 著者はこの本を書いた意図を「はじめに」のなかで以下のように述べている。「社会階級または経済状態は、統合失調症者が病気から回復するか否かに影響するだろうか」「元来の意図は抗精神病薬の治療導入以前の統合失調症の自然経過がどのようであったかを明らかにしようというものであったが、この単純な目標は、精神医学が大幅に承認している現下の思いこみは不正確であることを分からせてくれた。私たちは、治療を受けていない統合失調症の予後に悲観的でありすぎ、現代の治療の有益性を過信しているのではないだろうか」「抗精神病薬は統合失調症の長期予後をさほど改善していないことがわかった。精神病院の開放化も精神病者の地域医療も抗精神病薬だけでは可能でなかった」「現代の地域医療の多くは、実際には到底治療と言える代物でなく、精神病者は、食べ物や避難所など基本的なニーズすらままならない薄汚くて貧弱な生活に追いやられている」。
 上記のことを論証するために著者は精神医学のみならず、社会学、歴史学、経済学の方法論を駆使している。特になぜドイツのエミール・クレペリンが早発性痴呆(統合失調症)を予後不良とし、スイスのオイゲン・ブロイラーが予後良好と見たのかを当時のそれぞれの国の経済状況(ドイツ・19世紀末大不況による貧困と失業、スイス・20世紀初頭の順風満帆な繁栄時代)が大きく影響しただろう事を経済学的視点で説明(患者の退院にあたっての仕事の確保の違い、退院率の違い、結果として病院の目的機能の違い〈治療して地域に返す、隔離し管理する〉)する方法は非常に分かりやすい。また、精神病院の退院率の向上が抗精神病薬登場以前に始まっていたことも説明されている(それぞれの時代・地域の労働力の不足が患者を労働力として地域に引き出した)。
 以上のようなことを書くと、著者がこの本を社会科学的なアプローチのみで記述しているかのように思われてしまうが、決してそうではない。第3部の《治療》の部分で「統合失調症の転帰は、1954年の抗精神病薬の導入によっても改善されていない」とし、予後良好な統合失調症患者にたいしての抗精神病薬の投与は有害であるとし、抗精
神病薬無投与治療、急性精神病エピソード状態へのマイナー・トランキライザー投与療法が記されている(もちろん治療環境の重要性についても詳しく述べている)。その生物学的アプローチとしては神経化学者マルコム・バワーズの「シナプスにおけるドーパミン過剰説ではなくドーパミン受容体の過感受性説」を基盤に展開している。そのほか「働くこと」と言う章を設けさまざまな分析提言をおこなっており、4月から施行された障害者自立支援法が就労を重視していることを考えると何かと参考になるだろう。
 さて、私がこの本で特に関心を持ったのが、マルコム・バワーズの「ドーパミン受容体の過感受性説」である。英国統合失調症協会(英国の家族会)医療顧問のデイヴィット・ホロビンが書いた『天才と分裂病の進化論』(新潮社)にも「ドーパミン受容体の過感受性説」が展開されている。ホロビンの説の一部は統合失調症の症状改善にビタミンやミネラルを重視する「分子整合精神治療」グループとも重複するが、その真骨頂は統合失調症についての進化論的解釈である。『統合失調症からの回復』と『天才と分裂病の進化論』を併せて読むとなかなか興味深い。
 ともあれ、現在の統合失調症をめぐる状況では、どこかに新たな仮説(物語)と新たな治療像が求められているのだと思う。

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訪問看護始めました

訪問看護ステーション円(えん) 中嶋 康子

 「健康とは、完全な肉体的、精神的及び社会的福祉の状態であり、単に疾病又は病弱の存在しないことではない。」看護学校の最初に教わったWHOの健康の定義である。そして、看護とは健康な状態により近づけるためのお手伝いをする仕事であると教わったような気がする。まじめな(?!)看護学生だった私は、素直にそれに従い患者さんたちがより健康な状態になるように「援助」「指導」することを仕事だと思っていた・・
 昨年の9月から訪問看護ステーションで仕事を始めた。それまで自分の中にあった漠然とした想いや、実習を通じてのイメージはあったが、実際に働き始めて訪問を重ねることで見えてきたことはとても奥の深いものと感じている。
 現実的に「訪問看護」とはいっても、まだ一般的な認知度は低く「看護婦(師)さんが来て、何をしてくれるの?」「ヘルパーさんとどこが違うの?」といったことをよく聞かれる。医療的な処置ができることや、医学的な知識があることがヘルパーさんとの違いを示す一つの目安にはなるのだろう。指導者たちは、「訪問看護でできないことは何もない」と言って在宅での幅広いサポートができることをアピールしている。医療が進み、費用の問題やQOLの考え方の広がりなどにより、在宅でもかなり高度な医療を受けながらの生活をしている人たちが増えてきている。
 そのような状況の中、実際訪問をしていて一番に感じることは、それぞれの人たちの生活の幅の広さであり、奥行きの深さである。それは、居住空間ひとつをとってみても、食生活をとってみてもいえることであり、多くは問題点としてあがってきていることである(だから訪問の依頼があるのだ)が、ある種感動的なものがある。モノがあふれ、居住空間が極端になくなっている家に住んでいる人(「ごみ屋敷」などといわれることもある)がいる。さぞ不便だろう、片付いたら楽だろうと思うのだが、そうなるまでの理由や、歴史(などというと少々大げさだが)がある。用意されなければまったく食事をせずに何日も過ごしてしまう人、反対に糖尿病といわれていても朝からファミレスでベーコン・ソーセージの入ったセットを食べたと教えてくれる人。もちろん「これはちょっと」と心配されることもあるが、皆が皆それぞれの生活をしていてたくましいなと感じることが多い。この生活を見ると、病院の中でより健康的な生活を目指して「援助」「指導」していたこととのギャップに思わず笑ってしまう。
 また、訪問する自分自身の心構えが立場により違うことに気がついた。今は、全く施設などの後ろ盾のないサービス業者である。相手に断られたら次の訪問はない。そして、現場は常に相手の生活の場である。むやみやたらとかき乱しては失礼になる。
だからといって、何もしなければ何のための訪問かと問われるだろう。「訪問してもらってよかった。」「またお願いします。」と言われるようにがんばらなければならない。
 はじめてから半年あまり、何とか年度を越すことができた。今はまだ、漠然とした「感じ」しか書くことができないが、今後経験を重ね、もう少しきちんとした実践の報告をしたいと思う。
*WHOの健康の定義は1998年から見直しの方向になっている。文頭の定義は1951年のものである。

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