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自分を生きるー向精神薬や睡眠薬が必要でなくなった理由

NPOこらーるたいとう 加藤真規子


 中学生の頃の私の心の状態は、自分ではうまく語れない。しかし数年前、東京都立中部総合精神保健センターの玄関に貼り出されていた習字「大丈夫。でも本当は助けてよ」という小学生の精神保健の標語を見上げた時、涙でその黒々した文字が見えなくなった。まさしく中学生の頃の私が一番叫びたかった言葉がそこにあったからだ。私は中学2年生の3月に三番目の姉が急性心不全で亡くなると、間もなく家に閉じこもるようになった。初めて精神病院に受診をしたのが、16才の5月、入院したのはその秋だった。胸がえぐられる思いがして、私は病棟ホールの真ん中で言葉を失った。「どうして皆、こんなところに入れられているの。こんなところにいたら本当に病気になってしまうじゃない」私は母への家庭内暴力があり、自分でも「こんなことをやっていては駄目になる」と、入院に同意したのだ。人間はあまりにも悲しかったり、つらいことがあると「胸が潰れる」というが、私の体験ではこの表現が一番ふさわしい。病棟を見回すと、誰もが沈黙し静かだった。しかし私の胸にはボーボーと皆の言葉にならない叫びが伝わってくるようだった。自ら患者になってみて、私は十代でひとつの真実を確信した。それは精神病の人は狂ってはいないということだった。異常なのは心も身体も痛み、打ちひしがれた人々をいたわり、癒す場が、このような冷たく荒廃した精神医療しか用意できないことの方だった。十代で大きな疑問を与えられたことが幸いだったか、不幸だったのかはまだわからない。
 27才で大学を卒業すると、精神病院、共同作業所などにソーシャルワーカーとして約十年勤務した。1990年に未知への不安や葛藤を抱えながら、思い切って職を辞した。しばらくひとりの精神障害体験者として生きてみようと思ったのである。その年の11月、神奈川県川崎市宮前区野川の地に「ハピネス野川」という名前の憩いの家を開設した。それでも挫けそうになることがたびたびあった。立場や役割の曖昧さからくる孤独と経済的な不安定さに疲労困憊していたし、自分の無力さを身にしみて感じていた。「貧すれば鈍す」という言葉を、自分のことも含めて噛みしめざるを得ない場面に遭遇することもあった。そんな私を支えてくれたのは既に90才近くなった母の言葉だった。大病した母を見舞うと、いい笑顔で母は言った。「早く帰りなさい。みなさんが待っておいでだよ」。母が何気なく使った敬語が、私の胸の内にハピネス野川の団らんを明るく照らし出してくれた。
 私が「ピア・カウンセリング」という言葉を初めて聞いたのは、1993年4月全精連(全国精神障害者団体連合会)の結成大会の時だった。1,200人の聴衆を見た人がつぶやいた。「精神障害者のピア・カウンセリングだ」。アルコール依存症者や身体障害者を中心に広がったピア・カウンセリングのルール、対等に時間を分け合い、役割交代をし、感じていることを伝え合うというやり方を私が身につけるのには4年近くを費やさなくてはならなかった。その4年間、私は再発し、自分の精神の奥底と、自分に向けられた差別と向き合うことを余儀なくされた。繰り返し「私」を主語に、私の「感情」を伝えていく習慣を生活に取り入れた。次第に「私」という人間は「私の歴史を築いてきた私の物語」であり、「私」の人生の主役は「私自身」であり、「私」は誰かのために生きるのではなく、自分自身のために生きていく権利と責任があり、「私」は、「私の体験」を語ることによって変化していくものであることがわかってきた。そしてこの生きた体験的知恵を伝えていくことが、ピア・カウンセリングの役割であることがわかってきた。ピア・カウンセリングを重ねていく内に、精神障害を発症していく過程で、「私の意見なんて、誰も関心がないに違いない」「私なんて、いたっていなくたってどっちでもいいんだ」という思いがあって、だんだん消えてしまいたくなったことや、声の大きな人に「泥足で侵入されるような」「虐待されるような」恐怖を抱いたこと、過剰な親切やお世話に対して、巧妙に魂を殺されるような疎ましさを感じていたことなどを語れるようになっていった。繊細な、弱い心だからこんな風に感じるのだ、と否認してきたことだった。感情は封印し、沈黙しているのが一番安全な生き方だと信じていた。ところが、こうした感じ方をしていた女性や障害者や依存症者が実に多いことを、私はピア・カウンセリングの中で発見していく。そしてピア・カウンセリングを学び始めてから6年も経った頃のこと。ようやく私は「私の生き方、感じ方を自分が受けとめてやらないで、誰が受けとめてやるのか」ということに気づくことが出来た。それと同時に、幼い頃の私が笑顔で「よく生き抜いたね」と、大人になった私を包んでくれるような不思議な感じを味わった。
 それから5年間、私は向精神薬や睡眠薬はもとより、多い時は1日にバケツ1杯くらいも飲んでいた大量のコーヒーもやめることができた。
 私は元来人見知りで、内向的で気が弱く、独りでいることが結構好きだ。不器用でたくさんのことはこなせない。しかし私は長い間、それでは駄目だ、明るくて、前向きで、外向的で、元気でなければならないと自分を励まし続けてきた。その間は薬が必要だった。年齢的なことも効を奏したと思うが、私の中でいろいろな面や体験がまざりあっているから、人間は面白いのだということがわかってきた。私は、人間として一番大切なことは、今を大切にして自分を生きることであり、自分を偽って生きるのが一番いけないことだと気がついたのである。
 最後に、おりふれ編集部の求めにより薬をやめていった過程を記しておきたい。
 ピア・カウンセリングの仲間に、うつ病体験者で薬学の大学院出身の人がいた。その人は「うつ病になって、薬をたくさん処方され、素直にのんで、うつ病は治ったが肝硬変が残った。薬は素直にのんじゃ駄目」と言い、私が薬をやめる相談相手になってくれることになった。ほかにも7人、私が薬をやめることを知って応援してくれるという人がいた。その人達は、長時間は無理だけど1日たとえば5分なら話し相手になると言ってくれた。
 薬は1/6ずつ減らし、結局1年かけてやめた。最初に減らした時、再発のような状態になった。そうなるよと言われていたし、相談相手もいたが、幻聴も出てきて「つらい、つらい」「私はこんなに頑張ってる!」と相談相手、応援団の人達に電話をかけまくった。一時期はかなり迷惑な存在だったと思う。でも相談相手が「(減薬の)ペースが速いんじゃない?」と言ったほかは、誰も「のんだ方がいい」とは言わなかった。案じながら私を支持してくれた。他の、薬をのんでいる仲間からは「2~3年はもつが、必ず再発する。そういう人をたくさん見てきている。のんだ方がいい」と言われたこともあった。主治医を含む私のことを良く知っている精神科医達は、私が「薬をやめてみたい」と言ったら、「それはルール違反」「全精連の活動をしている人がそれはないよ」等の反応だった。これは医師の関与なく、自分の責任でやる方がいいと思った。1年かけて薬をのまず幻聴もなくなったことを告げると、彼らも喜んでくれた。もともと主治医は「1年のうち3分の2は寝ている生活ができたらいいんだけど、そうもいかないから大変だよね。律儀、真面目に馬車馬のように働くのでなく、よそ見もしてゆったりして、自然に身をまかせて」と勧めてくれている人である。
 薬をやめた時期は、「こらーる」を始めて2年目。運動体である全精連の仕事だけをしている時は、無理をしていたと思う。私には運動だけでは駄目で、仲間どうし寄り合い、気遣い合う場が必要だった。フェミニストセラピーの50才代のIさんに、「もうそんなに頑張らなくてもいい。花屋で200円の花を買って、大事に育て元気をもらう生活も価値があるよ」と言われ、生活をスローライフにした時期でもあった。食生活も「肉食べて元気出さなくちゃ」というそれまでの姿勢をやめ、野菜をたくさん食べるようになった。競争しない生き方=薬をのまないということでもあった。
 薬をやめたいと思ったのは、多くの特に若い人がやめたいと思うのと同じ気持ちで、呂律が回らず、頭のめぐりが悪くなり、みじめな感じがいやだった。外国の当事者活動をしている多くの人が薬をのんでいないことにも影響された。著名なリーダー達だけでなく、トリエステやカナダの普通の人々も薬をのんでいなかった。あの人達にできるんだから・・・。 日本では、統合失調症の人だけでなく神経症の人達も含め、薬をのむのが当たり前になり過ぎているのではな
いか。これは私の思い、私の選択で、他の人たちも薬をやめた方がよいと言いたいのではない。けれども、人を労り、励まし、回復させてくれる最良のツール(道具)が、人であることは確かであった。

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