おりふれ編集部への手紙
M.
毎回おりふれ通信を楽しみに読ませて頂いています。「精神医療はやっぱりおかしい、異常だ」と私は確かに思うのですが、回りの人々の反応に、その確信が揺らぐこともしばしばです。それを揺り戻させてくれる貴重な存在のひとつが「おりふれ通信」です。
どんな風に異常なのかを、自分の中で整理して、外に向かって提示できるといいと思うのですが、なかなかきっかけがつかめずにいます。
前号(No.246)の小林信子さんのご意見は尤もだとは思いますが、記事にすることを断られた方の心情も否定できないのでは、と思いました。
精神医療ユーザーは、いろんな場面でしばしば「まず、あなたの中の内なる偏見をなくしなさい」と言われます。それは最も身近な理解者と思われている専門家からの場合がままあります。「それは酷だよ!」と言いたいのです、私は。偏見や差別は外から与えられるものです。外の世界に偏見・差別がなかったら、内なる偏見は育つことがないでしょうに。
精神医療ユーザーは「あなたはダメな人間。あなたは変わる必要がある。あなたは劣等だ」というメッセージを受け取り続けています。メッセージを発している方はそのことにほとんど気づいていなくて、受け取る立場になって初めて感じることです。
ユーザー自身が差別と闘うことは必要だと解っています。でも、それが出来ないほどに差別と偏見が根強いということではないでしょうか。だからこそおりふれ通信の存在は貴重なものだと思っています。これからも揺らぐことのない指針を掲げ続けてくださいますようお願いします。私も九州でささやかですが、ユーザーの表現活動の場を守っていきたいと思います。
やるべきことはたくさんあるのに、自身の力の無さに情けなくなります。でも案外楽観的でいられるのは、他の人々の力を信じられるから。ユーザーには力がないと思われがちだけど、力を発揮する場さえ与えられれば、もっと輝ける人はたくさんいます。回りも本人もそのことに気づいていないだけ。気づけるきっかけがあれば(意識覚醒?)その人本来の力を発揮できるはずです。
いったん精神医療ユーザーになると、否定的なメッセージばかりが回りに溢れ、自分自身の中の弱さにのみ目が向いてしまいがちになります。その人が本来持っている能力は変わらないはずなのに、それは忘れられ葬られていきます。そういう方向へと(無意識のうちに?)導いてしまう精神科医療というのは、やはり異常というしかありません。
精神的に危機状況にあっても、狂っていない正常な心の動きというのはあるものです。それを見逃してすべてが狂ってしまっているような扱いを受けると、本人は自分を信じられなくなり、無力感に襲われます。どんなに常軌を逸しているように見えても、その中に正常な心の動きがあるだろうに、そしてそれをきちんと見てくれる人がそばにしっかり付いていてくれたら、回復へと向かえるだろうに。
誰にもリカバリー*への道は開かれていると私は信じるのですが。他の人々はどう感じておられるのでしょうか。
*補足:「リカバリー」という言葉を、私はアメリカの精神医療ユーザーから教えられました。それは、日本語の「回復」という言葉では収まりきれない、深い意味を持っていて、常々そういうことを考えていながらも、適切な言葉で表現できていなかった概念でした。そして私の経験した医療には欠落していたことでもありました。日本の福祉、医療の分野でこの言葉がどう定義されているのかは分かりませんが、私はこの言葉を「自分の人生を自分の手に取り戻すこと」という風な意味で捉えています。そのことは、回復に向かうために最も重要なことだと考えます。
自分には、自分の人生を生きることができる価値がある。自分の命は他の人と同じに尊く、
かけがえのないもので、自分には自分の人生をより良く生きる権利があり、可能性も持っている。その可能性は誰からも奪われてはいけない。そのようなことに気づき、自分の力で歩み始めることだと思います。
医療を受けていても、薬を飲み続けなくてはいけないとしても、自分の人生は自分にとって価値があると思えれば、より良く生きることは可能だと思います。たとえ苦悩に満ちていたとしても。
私は「リカバリー」という言葉をこんな風に考えています。
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