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<2006年1月号編集後記>

編集部の木村です。今年もよろしくお願いします。

 年明け1月の編集会議は、飯田さん達のお休みもあって、当事者4人(岡本さん、久保田さん、石井さん、久しぶりのAさん!)、従事者2人(看護の佐藤さんとPSWの私)、その他1人(小林さん)という顔ぶれでした。そして今号も、当事者として生きていこうとされている加藤さんとMさんというお二人に多くを負っています。小林信子さんはおりにふれて気を吐いてくれていますが、精神医療従事者である私たちは、大きな構想ではっきりものを言うことができなくなっており、信頼し尊敬する当事者の友人達の後をついていくような形に、自然になっていくのかもしれません。

 ところで私は診療所のデイケアで働いていますが、そこで昨年の秋から冬にかけて、40~50歳代のメンバーが4人続いて突然死されるというつらいことがありました。全員が向精神薬を、長年にわたって多くの量服用しておられました。3人は多摩地域の住人で、心筋梗塞、急性心不全との死亡診断のもと、解剖されることもなく終わりましたが、もう1人は23区内の住民であったため、東京都観察医務院で解剖され、開いてみただけではわからないということで、細胞をとってその後数ヶ月かけて調べられ、結局エコノミークラス症候群のような死因であったことがわかりました。23区内の突然死で解剖されても、精神障害者は「薬物中毒」という死因がかえってくることが多いと聞いたことがありますが、ろくろく調べもせず「心筋梗塞」ですまされるよりは、より事実に近いと思いますし、じゃあ「薬物中毒」って何なのか、どの程度の量・期間、服薬したらそうなるのかなど、次の検討もあると思います。検討して生きている人への臨床に役立てていかねばならないとも思います。
 この問題については、今後もとりあげていきたいと思っています。ご意見よろしく。

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「データから見た埼玉の精神病院」が出ました!-「東京精神病院事情」につづき、埼玉の精神病院情報公開本です。

埼玉県の精神医療を考える会  星丘匡史

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 埼玉県の精神医療を考える会は、平成14年3月にスタートし、精神保健福祉資料を有効に活かそうと、冊子を作りたいと会合を開いてきました。参加者は入れ代り立ち代りで、集まった人によって内容も変わり雑談で終わることもしばしばありましたが、この度ようやく冊子ができあがりました。東京や大阪ではすでに何冊も作られていますので、それらを参考にさせて頂きました。埼玉県では初めての試みです。
 精神保健福祉資料には病床数、専門病棟の有無、医師数、看護者数、コメディカルスタッフ数、入院期間、入院者の年齢構成などが記載されています。それらのデータの中から、病院の特徴が現れると思われる項目を8つ(常勤医・常勤正看護師・常勤コメディカル一人当たりの在院者数、回転率、5年以上・3ヶ月未満の在院者率、家庭復帰以外の退院率、外来者)選び、点数化しました。必ずしも点数の多いほうがいい病院とはならないけれども、ある程度の特徴は現れると思います。
 この冊子はあくまでもデータをもとにした参考資料にすぎませんが、利用したい人たちに、利用せざるを得ない人たちに病院を選べるようにとの思いで作りました。また、長期入院者の数や入院期間の長さ、医師や看護師やコメディカルスタッフなどの少なさなど、多くの問題を持った精神病院の実態を多くの人に知ってもらいたいとの思いがありました。
 この冊子が、当事者やその家族の方々の役に立つことを望むとともに、少しでも多くの人たちに精神病院の実情を知ってもらい、病棟の中で人生の大半を送らされている取り残された人たちのことを考えるきっかけになることを望みます。

~冊子作りに参加した面々  (一部ですが)の思いを紹介します~

「東京精神病院事情」の本を知って、埼玉版を出そうと思ってからはや10年余り。7,8人の仲間で話し合ってるうちに、迷ったり、不安になったり、こね回しているうちにへんてこになったりしながらも、何とか冊子の形になりました。とてもでないけど十分とは言えませんが、形になって良かったと思います。埼玉の精神病院について少しでも多くの人が関心を持ってくれることを期待したいと思います。
 始めの頃は、病院を敵視していて、病院に「一泡吹かせてやろう」と力んでいたと思います。その頃は、空回りしていたように思います。最近になって少し穏やかになり、事実のみを伝えようと思うようになりました。まだまだ批判的な表現が多いかもしれませんが、病院関係者の方や、関係機関の方や、当事者の方や、家族の方や、その他の方々とも一緒に考えていけたらと思っています。(星丘)

 なぜ冊子製作に携わったかというと、まずこの会が入りやすい雰囲気を持っていたから。そして、この会に参加して長い間、心の奥底にしまっていた思いが蘇った。
 全てがそうではないが、精神科病院は明らかに他科病院と異なっている。10数年前、家族が精神病院に入院した時、病院側は頑なに『3ヶ月』の入院期間を提示してきた。同じ病院に2度入院するが、いずれも3ヶ月だった。本人が退院を強く希望し、素人判断だが家庭に復帰できると思い、退院させてほしいと訴えるが、3ヶ月より早い時期だった為、「責任もてませんよ」と主治医は強く言い放った。(後に新患入院は4ヶ月目から診療報酬が低くなると知って、合点がいった)急性期は家族も消耗するが、本人がある程度落ち着いた状態であり、家族も支えられるのであれば本人にとって家庭で養生した方が回復は早いはずだ。
 その後、医療不信になるが、断薬により再発。医療に再度つながるまでは、時間がかかってしまったが、別の病院に入院。順調に回復していったが、開放病棟に移ってから、具合が悪くなる。和室での何十人もの共同生活、管理的なスタッフ。これは逆効果と判断し、退院を主治医に頼むが、「もう少し、もう少し」と延ばされ5ヶ月を過ぎた。本人の我慢も限界に近い。退院せざるを得ない家庭の状況であると、うそを言い、逃げるように退院。(後に、入院者を固定資産と考える病院があると知り合点がいく) 入院当初この病院で、スタッフから不思議な言葉を聞いた。本人の衣類に名前を縫いつけて持っていった。退院後は、糸を抜けばまた自宅で着ることができるからである。それを見た看護師は「あら、退院を考えてるのね」・・・この時、ピンとくれば良かったと後悔した。
 病院のせいだけとは思わない。入院という形で当事者を他に任せたままの家族もいると思う。しかし、普通に考えれば入院とは治療の為にするもので、病院の都合や利益から入院期間や治療方針を決めるものではないはずだ。ある入院経験のある当事者の方が「俺たちは金儲けの道具じゃない」と言った。同じような経験のある人がいる。そうは思いたくはないが、こういう体質の病院はまだまだあるのではないだろうか。また、20年も30年も病院生活をしている人達がいるのを知り、衝撃を受けた。中には保護室で何十年もというケースもある。知れば知るほど許されないことが、放置されたままである。
 私にとって冊子を送り出すということは、病院批判をしたいのではない。治療を目的とした医療を望んでいるだけである。問題の投げかけをする為という意味でこの冊子が生まれたのである。(堀)

 私が、考える会に参加したのは2004年の初めでしたが、基本的に知識を増やしたいと考えて参加したと思います。その後、冊子の制作に携わり病院の実情を知ることとなりました。その結果として、視野が広くなったことが自分にとっては最も有意義であったと思います。冊子を見て点数の低い病院の関係者の方々はおそらく不満を持つと思いますが、長期入院者が多いことなど考慮すべきことが多くあると思います。ただ、私としてはこの冊子が病院の実情を全て表しているとも思ってないので、今後も自分自身の視野を広げて行こうと考えています。また、少しでも病院の実情が明らかになり、閉鎖的といわれている。病院の状況が少しでも改善されることを望みます。(平井)

 精神科医療、また精神科病院について、個人的には何の体験も特別の思いもありませんでした。しかしボランティアとして多少なりとも動いてみると、一般市民の関心のなさ(あるいは偏見)と関係者の閉鎖性、相乗効果の「風通しの悪さ」をとても感じました。そして風通しの良くないところにはあまりいいことがないのではないかと思います。したがって病院や関係者はもとより、むしろ関心がなかった人々の目にも少しでも触れてくれたらと願っています。また、これは一つの投げかけであり、いろいろな方の反応や意見を頂くことで、次の「何か」につなげていけたらと思っています。(村田)

 昨今は情報過多とも思えますが、自分の必要としていることが、どれほどあるかは疑問です。知りたい人に知りたいことが届いているのか・・・と思います。特に精神病院のことは家族でも入院しない限り何もわからない、知らされてはいないでしょう?
 遅ればせながら精神障害者の福祉の向上が少しずつ変わってきている今日でも、その状況は同じだと思います。私はただ「知りたい」そして知ったことを伝えたい。それが参加した理由です。(西屋)

「データから見た埼玉の精神病院」お申し込みは、fax048-731-3401 郵便振替00100-3-686227 埼玉の精神医療を考える会

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「東京精神病院事情」について

病院PSW カメレオン

 昨年ある研修会で、どこかの理事の方が講演の中で、都内のいくつかの病院のデータを比較しながら、この本のデータは良く出来ていると評価され説明に使われていました。私自身も他病院の状況や当院の評価を知るために毎回発行されると購入してきました。戸棚には過去の4冊があるはずと、今回の原稿依頼のために参考にしようと探しましたが、結局1冊も見つかりませんでした。当院はこの調査自体に積極的に協力している医療機関ではありませんが、それぞれの部署で気になっているらしく、借りに来ては返すといったことを繰り返すうちに、いつの間にか戸棚から消えてしまったのではないかと思われます。院内でも評価について、常に気になっていることは確かです。それだけ周知された存在の書物として利用されているようです。
 読む側にとって残念なのは、訪問調査に非協力の病院が47と半数以上になり、それらについては、表や数字のみで判断しなければならないことです。この中には、過去の版で自分の病院が批判的に書かれたと調査に非協力的になってしまった病院もあるようです。批判的に書くことで次回の調査に協力が得られないことも、当然に予想されることです。読む側にとっては、多くの病院に調査協力してもらい、共通の情報が伝えられることも大事ではないかと思います。いずれにせよ、率直に書き手が伝えたいことと、多くの病院に協力してもらうことのバランスが難しく今後の課題と思います。一方、調査を受け入れた病院は、2頁半にわたり病院の様子から始まってアンケート回答等、コメント付きで詳細に書かれています。さらに治療方法も案内してあり、参考になりました。このように詳細に書かれていると、数字に表せないソフト部分を判断するのに有効です。毎回ボリュームも増し、その病院の様子も分かりやすくなっています。
 近年病院医療も変化せざるを得なくなっています。数字を見るとほとんどの病院で点数がアップしています。そういう意味では、当事者達が利用しやすい病院に近づいていけるのではないかと願っています。
mso2ADC1 ←「東京精神病院事情」こちらもよろしく

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自分を生きるー向精神薬や睡眠薬が必要でなくなった理由

NPOこらーるたいとう 加藤真規子


 中学生の頃の私の心の状態は、自分ではうまく語れない。しかし数年前、東京都立中部総合精神保健センターの玄関に貼り出されていた習字「大丈夫。でも本当は助けてよ」という小学生の精神保健の標語を見上げた時、涙でその黒々した文字が見えなくなった。まさしく中学生の頃の私が一番叫びたかった言葉がそこにあったからだ。私は中学2年生の3月に三番目の姉が急性心不全で亡くなると、間もなく家に閉じこもるようになった。初めて精神病院に受診をしたのが、16才の5月、入院したのはその秋だった。胸がえぐられる思いがして、私は病棟ホールの真ん中で言葉を失った。「どうして皆、こんなところに入れられているの。こんなところにいたら本当に病気になってしまうじゃない」私は母への家庭内暴力があり、自分でも「こんなことをやっていては駄目になる」と、入院に同意したのだ。人間はあまりにも悲しかったり、つらいことがあると「胸が潰れる」というが、私の体験ではこの表現が一番ふさわしい。病棟を見回すと、誰もが沈黙し静かだった。しかし私の胸にはボーボーと皆の言葉にならない叫びが伝わってくるようだった。自ら患者になってみて、私は十代でひとつの真実を確信した。それは精神病の人は狂ってはいないということだった。異常なのは心も身体も痛み、打ちひしがれた人々をいたわり、癒す場が、このような冷たく荒廃した精神医療しか用意できないことの方だった。十代で大きな疑問を与えられたことが幸いだったか、不幸だったのかはまだわからない。
 27才で大学を卒業すると、精神病院、共同作業所などにソーシャルワーカーとして約十年勤務した。1990年に未知への不安や葛藤を抱えながら、思い切って職を辞した。しばらくひとりの精神障害体験者として生きてみようと思ったのである。その年の11月、神奈川県川崎市宮前区野川の地に「ハピネス野川」という名前の憩いの家を開設した。それでも挫けそうになることがたびたびあった。立場や役割の曖昧さからくる孤独と経済的な不安定さに疲労困憊していたし、自分の無力さを身にしみて感じていた。「貧すれば鈍す」という言葉を、自分のことも含めて噛みしめざるを得ない場面に遭遇することもあった。そんな私を支えてくれたのは既に90才近くなった母の言葉だった。大病した母を見舞うと、いい笑顔で母は言った。「早く帰りなさい。みなさんが待っておいでだよ」。母が何気なく使った敬語が、私の胸の内にハピネス野川の団らんを明るく照らし出してくれた。
 私が「ピア・カウンセリング」という言葉を初めて聞いたのは、1993年4月全精連(全国精神障害者団体連合会)の結成大会の時だった。1,200人の聴衆を見た人がつぶやいた。「精神障害者のピア・カウンセリングだ」。アルコール依存症者や身体障害者を中心に広がったピア・カウンセリングのルール、対等に時間を分け合い、役割交代をし、感じていることを伝え合うというやり方を私が身につけるのには4年近くを費やさなくてはならなかった。その4年間、私は再発し、自分の精神の奥底と、自分に向けられた差別と向き合うことを余儀なくされた。繰り返し「私」を主語に、私の「感情」を伝えていく習慣を生活に取り入れた。次第に「私」という人間は「私の歴史を築いてきた私の物語」であり、「私」の人生の主役は「私自身」であり、「私」は誰かのために生きるのではなく、自分自身のために生きていく権利と責任があり、「私」は、「私の体験」を語ることによって変化していくものであることがわかってきた。そしてこの生きた体験的知恵を伝えていくことが、ピア・カウンセリングの役割であることがわかってきた。ピア・カウンセリングを重ねていく内に、精神障害を発症していく過程で、「私の意見なんて、誰も関心がないに違いない」「私なんて、いたっていなくたってどっちでもいいんだ」という思いがあって、だんだん消えてしまいたくなったことや、声の大きな人に「泥足で侵入されるような」「虐待されるような」恐怖を抱いたこと、過剰な親切やお世話に対して、巧妙に魂を殺されるような疎ましさを感じていたことなどを語れるようになっていった。繊細な、弱い心だからこんな風に感じるのだ、と否認してきたことだった。感情は封印し、沈黙しているのが一番安全な生き方だと信じていた。ところが、こうした感じ方をしていた女性や障害者や依存症者が実に多いことを、私はピア・カウンセリングの中で発見していく。そしてピア・カウンセリングを学び始めてから6年も経った頃のこと。ようやく私は「私の生き方、感じ方を自分が受けとめてやらないで、誰が受けとめてやるのか」ということに気づくことが出来た。それと同時に、幼い頃の私が笑顔で「よく生き抜いたね」と、大人になった私を包んでくれるような不思議な感じを味わった。
 それから5年間、私は向精神薬や睡眠薬はもとより、多い時は1日にバケツ1杯くらいも飲んでいた大量のコーヒーもやめることができた。
 私は元来人見知りで、内向的で気が弱く、独りでいることが結構好きだ。不器用でたくさんのことはこなせない。しかし私は長い間、それでは駄目だ、明るくて、前向きで、外向的で、元気でなければならないと自分を励まし続けてきた。その間は薬が必要だった。年齢的なことも効を奏したと思うが、私の中でいろいろな面や体験がまざりあっているから、人間は面白いのだということがわかってきた。私は、人間として一番大切なことは、今を大切にして自分を生きることであり、自分を偽って生きるのが一番いけないことだと気がついたのである。
 最後に、おりふれ編集部の求めにより薬をやめていった過程を記しておきたい。
 ピア・カウンセリングの仲間に、うつ病体験者で薬学の大学院出身の人がいた。その人は「うつ病になって、薬をたくさん処方され、素直にのんで、うつ病は治ったが肝硬変が残った。薬は素直にのんじゃ駄目」と言い、私が薬をやめる相談相手になってくれることになった。ほかにも7人、私が薬をやめることを知って応援してくれるという人がいた。その人達は、長時間は無理だけど1日たとえば5分なら話し相手になると言ってくれた。
 薬は1/6ずつ減らし、結局1年かけてやめた。最初に減らした時、再発のような状態になった。そうなるよと言われていたし、相談相手もいたが、幻聴も出てきて「つらい、つらい」「私はこんなに頑張ってる!」と相談相手、応援団の人達に電話をかけまくった。一時期はかなり迷惑な存在だったと思う。でも相談相手が「(減薬の)ペースが速いんじゃない?」と言ったほかは、誰も「のんだ方がいい」とは言わなかった。案じながら私を支持してくれた。他の、薬をのんでいる仲間からは「2~3年はもつが、必ず再発する。そういう人をたくさん見てきている。のんだ方がいい」と言われたこともあった。主治医を含む私のことを良く知っている精神科医達は、私が「薬をやめてみたい」と言ったら、「それはルール違反」「全精連の活動をしている人がそれはないよ」等の反応だった。これは医師の関与なく、自分の責任でやる方がいいと思った。1年かけて薬をのまず幻聴もなくなったことを告げると、彼らも喜んでくれた。もともと主治医は「1年のうち3分の2は寝ている生活ができたらいいんだけど、そうもいかないから大変だよね。律儀、真面目に馬車馬のように働くのでなく、よそ見もしてゆったりして、自然に身をまかせて」と勧めてくれている人である。
 薬をやめた時期は、「こらーる」を始めて2年目。運動体である全精連の仕事だけをしている時は、無理をしていたと思う。私には運動だけでは駄目で、仲間どうし寄り合い、気遣い合う場が必要だった。フェミニストセラピーの50才代のIさんに、「もうそんなに頑張らなくてもいい。花屋で200円の花を買って、大事に育て元気をもらう生活も価値があるよ」と言われ、生活をスローライフにした時期でもあった。食生活も「肉食べて元気出さなくちゃ」というそれまでの姿勢をやめ、野菜をたくさん食べるようになった。競争しない生き方=薬をのまないということでもあった。
 薬をやめたいと思ったのは、多くの特に若い人がやめたいと思うのと同じ気持ちで、呂律が回らず、頭のめぐりが悪くなり、みじめな感じがいやだった。外国の当事者活動をしている多くの人が薬をのんでいないことにも影響された。著名なリーダー達だけでなく、トリエステやカナダの普通の人々も薬をのんでいなかった。あの人達にできるんだから・・・。 日本では、統合失調症の人だけでなく神経症の人達も含め、薬をのむのが当たり前になり過ぎているのではな
いか。これは私の思い、私の選択で、他の人たちも薬をやめた方がよいと言いたいのではない。けれども、人を労り、励まし、回復させてくれる最良のツール(道具)が、人であることは確かであった。

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おりふれ編集部への手紙

M.

 毎回おりふれ通信を楽しみに読ませて頂いています。「精神医療はやっぱりおかしい、異常だ」と私は確かに思うのですが、回りの人々の反応に、その確信が揺らぐこともしばしばです。それを揺り戻させてくれる貴重な存在のひとつが「おりふれ通信」です。
 どんな風に異常なのかを、自分の中で整理して、外に向かって提示できるといいと思うのですが、なかなかきっかけがつかめずにいます。
 前号(No.246)の小林信子さんのご意見は尤もだとは思いますが、記事にすることを断られた方の心情も否定できないのでは、と思いました。
 精神医療ユーザーは、いろんな場面でしばしば「まず、あなたの中の内なる偏見をなくしなさい」と言われます。それは最も身近な理解者と思われている専門家からの場合がままあります。「それは酷だよ!」と言いたいのです、私は。偏見や差別は外から与えられるものです。外の世界に偏見・差別がなかったら、内なる偏見は育つことがないでしょうに。
 精神医療ユーザーは「あなたはダメな人間。あなたは変わる必要がある。あなたは劣等だ」というメッセージを受け取り続けています。メッセージを発している方はそのことにほとんど気づいていなくて、受け取る立場になって初めて感じることです。
 ユーザー自身が差別と闘うことは必要だと解っています。でも、それが出来ないほどに差別と偏見が根強いということではないでしょうか。だからこそおりふれ通信の存在は貴重なものだと思っています。これからも揺らぐことのない指針を掲げ続けてくださいますようお願いします。私も九州でささやかですが、ユーザーの表現活動の場を守っていきたいと思います。
 やるべきことはたくさんあるのに、自身の力の無さに情けなくなります。でも案外楽観的でいられるのは、他の人々の力を信じられるから。ユーザーには力がないと思われがちだけど、力を発揮する場さえ与えられれば、もっと輝ける人はたくさんいます。回りも本人もそのことに気づいていないだけ。気づけるきっかけがあれば(意識覚醒?)その人本来の力を発揮できるはずです。
 いったん精神医療ユーザーになると、否定的なメッセージばかりが回りに溢れ、自分自身の中の弱さにのみ目が向いてしまいがちになります。その人が本来持っている能力は変わらないはずなのに、それは忘れられ葬られていきます。そういう方向へと(無意識のうちに?)導いてしまう精神科医療というのは、やはり異常というしかありません。
 精神的に危機状況にあっても、狂っていない正常な心の動きというのはあるものです。それを見逃してすべてが狂ってしまっているような扱いを受けると、本人は自分を信じられなくなり、無力感に襲われます。どんなに常軌を逸しているように見えても、その中に正常な心の動きがあるだろうに、そしてそれをきちんと見てくれる人がそばにしっかり付いていてくれたら、回復へと向かえるだろうに。
 誰にもリカバリー*への道は開かれていると私は信じるのですが。他の人々はどう感じておられるのでしょうか。

*補足:「リカバリー」という言葉を、私はアメリカの精神医療ユーザーから教えられました。それは、日本語の「回復」という言葉では収まりきれない、深い意味を持っていて、常々そういうことを考えていながらも、適切な言葉で表現できていなかった概念でした。そして私の経験した医療には欠落していたことでもありました。日本の福祉、医療の分野でこの言葉がどう定義されているのかは分かりませんが、私はこの言葉を「自分の人生を自分の手に取り戻すこと」という風な意味で捉えています。そのことは、回復に向かうために最も重要なことだと考えます。
 自分には、自分の人生を生きることができる価値がある。自分の命は他の人と同じに尊く、
かけがえのないもので、自分には自分の人生をより良く生きる権利があり、可能性も持っている。その可能性は誰からも奪われてはいけない。そのようなことに気づき、自分の力で歩み始めることだと思います。
 医療を受けていても、薬を飲み続けなくてはいけないとしても、自分の人生は自分にとって価値があると思えれば、より良く生きることは可能だと思います。たとえ苦悩に満ちていたとしても。
 私は「リカバリー」という言葉をこんな風に考えています。

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新春の松島を論じて瑞巌寺庫裡に及ぶ

岡本省三

 しかり、過剰な期待は必ず裏切られる。しかしながら、松島が私を裏切ったのは思うに「過剰な期待」の故のみではない。
 三百余年前この地を訪うて、その勝景洞庭西湖も及ばず云々と見て来たようなウソをついたご存知の大胆な文人(注1)以来の、この多島湾の地質植生上の変貌を(良くは知りませんが)無視することは出来まいし、何しろ白波蹴立てての「観光船」からのオペラグラスではそもそも太刀打ちも何もあったものではない。が、それらには大胆に目をつぶり、松島が私を裏切った故を以下に述べる。
 島々その大小と形状に違いはあれど、どの島も樹齢、樹形さも似て密生する赤松にすっぽりと覆われ、いずこも同じ単調さ。と来ては往時この地を天下の勝景たらしめたらん「変幻目を奪うの妙」今や求むべくもなく・・・と大見得を切ってはみたものの、「半日和船を泛べて」の島廻りも、「小高い要地を占めての擅いままなる」鳥瞰も相叶わず、とあっては最初の意気込みどこへやら、この一文恥ずかしながら龍頭蛇尾とは何とも致し方なし。トホホ・・・
 いやいやかくてはならじ。急ぎ陣を立て直していざや、やってみましょう!!

matsusima1
 建立以来四百星霜、壮大な寺域遺構を今に留めるとおぼしき瑞巌寺(1609年)(注2)。今や亭々たる老杉これに加わって、その森厳その美、実に言うべからず。これに加えて新春というのに(多分)初詣を謝絶して、人影疎ら。その見上げた見識お見事とくれば、あとは近頃とみに大盤振る舞い甚だしく、始末に負えない世界遺産とやらには間違ってもご指名になりませんように。ナンマンダブナンマンダブ・・・・・・・・・しかし待てよ。頃はあたかも良し(いや「悪し」かしらん)、慶長「権現造り」の全盛期、これはイカンとハラハラしましたよ、ホント。
 果たせるかな本堂、ぐるりと欄間にめぐらしたるかの浮彫群!(国宝なれど、ワザワザここまで見に来るにも及ばず。)ここで驚くべし昔日の極彩色すっかり褪色剥落するにまかせて「悪趣味」の毒気に当てさせるのを防ぐ用意と見たは、これまたご見識。いやご立派、ご立派。

さていよいよ目を転ずれば、左手なるは国宝(注3)庫裡(「台所」ですな)。東向き正面は大屋根の反りも程良い質素な切妻造り。形ばかりの如意頭こそあれ大きな壁面、目にも爽やかな総白壁。あとは縦と横に廃された素木のみ、と一見単純なるごとくしてさに非ず。素木も今や年経て黒黒として白と黒の対照の妙言はん方なく、しかも素木上方に至るに従い、やや繁を加えしめ、かつその交わるところ横木下向きにふくらみを持たせて単調の嫌いを避けたるあたり、実に感に堪えたる工夫の冴え。
 しばし立ちつくして動くも能わず、ようやく横手に廻って大屋根の拡がりに目を遣るに、ヤヤヤ、はても異様な一工作物、やや前寄りに直角に鎮座しておりまする。これ実に武者返しまで備えし小天守最上層の構えにして、その入念な入母屋造り威厳に満ちて静まり返り・・・いや実以てまさかこれほどとは・・・
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あたかも良し、霏々として降り初めたる雪に風も加わってのその風情、にわかには去り難く、傘傾けて振り返り振り返り名残を惜しんでの新春の旅、目出度くオシマイと相成りまする。(完)


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