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連載最終回「当事者職員」として働いてみて‥その後

久保田 公子

○私の病い観・「障害」観
私は今まで病いや「障害」というものをどうとらえてこの仕事をしてきたのだろうか。長くなるが、これまで書き記してきた文章の中から、振り返ってみたい。
『そもそも私が今の仕事を選んだきっかけは、自分の限界に悩んでいたとき、自分の状態と「病者」といわれる人たちとは、何か共通するものがあるのではないかと思ったことにありました。その後のかかわりの中でやはり違うのではないか、と思ったこともありましたし、それがある意味では「ケースワーカー」としてかかわっていくことを自分に許したのかもしれないと思っています。確かに違いはあるとしても、それをまったく異質なもの、あるいは「症状」としてきってしまうのではなく、あくまで私たち「正常」といわれる人間にそれぞれ内的世界があるように、「病者」といわれる人にも同じようにそれぞれの世界があり、またそれが形成されていくそれなりの道すじが、個々にあるのだということを忘れてはならないと思います。』
『私たちは「病気」というものを、とかく否定的にのみ考えがちであるが、「病気」はその人がおかれている危機状況のあらわれであり、それを乗り越えることが出来たときには、新しい自分になっているような、そういう面もあるのではないだろうか。』
以上が、病院に就職して1~3年くらいの頃の病い観であり、作業所時代には次のように書いている。
『作業所の中で視えてくる「病い」は病院のそれとはやはり違っている。その人の生活と、生と分かちがたくある「病い」。それゆえに、その重さを、生きがたさをより感じさせられたこともある。しかしそれは、外側からの操作的な「治療」によってではなく、生活の中で、様々な関係性の中で、その人の内側から癒され「治癒」していくものなのだろうと思えてならない。』
『ふり返ってみれば、病院時代の私の「病者観」「障害者観」はずい分と一面的で、観念的であったと思う。今ようやく、私自身もメンバーも、この社会の中で揺れ動き、闘いつつ、でもある時は人を恨んだり、排除したり、差別さえもしてしまいながら、あるがままの自分、互いを認め合える他者とのつながりを求めて試行錯誤している同じ人間・仲間と思えてきた。』
これらの考えは今も基本的には変わっていないが、自分が病いを体験してくる中で、より深い実感を伴ってきている。上述した最後の引用文については、とりわけそうである。病院時代は、「虐げられた環境に耐えながらも、人をほっとさせるやさしさを持ち合わせ、時にはç—(‚½‚­‚Ü)逞しい知恵を働かせて日々を生きる患者さん達」に私も救われ支えられてきたのであり、また病いを抱える人たちは、「純粋」で私たちを縛る世間の規範や価値観からも遠く離れた人たち、と受けとめていたような気がする。しかし作業所や現在の地域生活支援センターのオープンスペースでかかわり合う中で感じるのは、私を含めて、負の部分や弱さを持ち合わせたもっと生臭い、あるいは「味のある」人たち、と思える。
そして今、改めて思うのは、病むことや「精神障害」をもつことは、その人の心や体、さらには社会に対する危機のサインでありメッセージであるということである。それゆえ、そうしたサインやメッセージが意味するものを一緒にさぐりながら、新たな生き方や再生への過程をともにし、社会のありようをもともに考えていければ、と職員でもある私は思う。病む人や「障害」をもつ人たちとのつきあいは、人と人とのつながりや社会のありようについて、より深く考えさせられるからである。
また、強く心に残っている一つの光景がある。老人ホームで「痴呆症」と言われる、あるおばあさんの入浴介助をしていた時のことである。誰もいなくなった、大きな浴槽の中につかりながら、その人は、ゆったりとおだやかに、歌を唄っていた。その光景を目にしながら、私は、「至福の時」と言いたいほどの満ち足りた気持・時間を味わった。「認知症」と言われるようになった人たちの心中を知ることは、私にはまだ出来ないが、少なくとも私にとっては出会えて良かったとしみじみ思える人たちである。
そして精神病院で出会った「知的障害」をもつ人たちは、その存在のかけがえのなさを体まるごとでもって表現し、問うており、私の心をふんわりと豊かにしてくれた。
 私の部屋には10年余り前から1枚の絵が飾ってある。それは、ある「知的障害」をもつ人の、チューリップが大きくあざやかな色あいで描かれている絵「私咲いてる」である。私はそれをながめては「こうありたいなあ」と願い、時にその絵は、「咲いてる?」「咲こうね」と私の心を支えてくれている。

○私の「今」
 ひとことで言うなら、私はずいぶんと楽になった。まずは、幼少期からの課題であった、「自分を過大にも過小にも視ることなく、ありのままの自分を認め、受け入れること」が出来るようになった気がするのである。これまでの私は、自分への自信のなさから、他者に向かって自分をひらいていくことが苦手であった。このことは、他者へのまなざし・他者とのつながり方における変化にも通じている。これまで私は、その人の全体を視ることなく、一部分だけをとらえて過大視したり、逆に過小評価して批判の対象としてのみ見がちであった(差別的な人や考え方が根本的に違う人に対してそうなりやすい)。そこからは人と人が対等につながり、学び合う関係は生まれない。そして、自分も他者も、「役に立つか否か」や「社会に貢献できるか否か」ではなく、存在そのものを認めうるような関係を作っていきたいと思う。
 また福祉の領域で身に付けがちな「ˆß(‚±‚ë‚à)衣」=相手を「対象」としてしか視れなくなる姿勢、「支援しなくては」という気負い、さらには「支援する」「頼られる」ことに依拠して自分を支えがちな在り方等からも解き放たれつつあるのを感じている。今の私にあるのは、「支援する・している」という感覚では殆どなく、一緒に悩んだり、考えたり、情報を伝えたり、出来ることがあれば力を貸したり、喜び合ったり、感動したり、という「ふつうのつきあい」あるいは「応援する」といった感覚である。
 そしてこれらの変化を手にし得たのは、揺れ動き、浮き沈みの多かった私に辛抱強くつき合ってくれたパートナーや友人たち等の支えはもちろんのこと、「この仕事に就いていたからこそ得られたものなんでしょうね」という主治医のことばそのものだと思える。これが、もうすぐこの仕事に就いてから20年になる私の「今」である。

○おわりに
 とはいえ、これからも揺れたり葛藤するかもしれない。でもこの実感を忘れず、この「今」に立ち戻って考え続けていきたいと思う。そして相手が分ってくれるかどうかはともかく、伝えたいことを伝え、新人職員や非「専門家」からも学ぶ姿勢をもち続け、「こなれた」職員・「専門家」にはなりたくないと思う。
 最後に、今の私にとって残された課題は、いくら「ふつうのつきあい」とは言っても、私はそれを仕事として糧を得て生活しているのであり、あくまでカッコ付きのものだということだ。これを解決するためには、もっと生身のつきあいが必要なのだろうか。それとも、このような仕事=「特殊な場での特別の人のためのもの」にとどまる福祉がなくなるような世の中・暮らしをつくっていくことで解決し得るのだろうか…。ともかく今後も、社会の状況に目を向けつつ「当事者であること」(今の私は「精神障害者」と呼ばれてもおそらく平気だ─「女」ということばを痛みとともに忌み嫌った時期があったがある時点からむしろ誇りをもつようになっ
たように─)、「資格者ともなった自分」、「労働者としての自分(私は精神病院で組合つぶしのために解雇されたことがある)」、ある状況下に在る人に対して知らないがゆえに差別・抑圧してしまうかもしれない一人の人間として、また私にとって最初の被差別体験としてあった「女であること」に依拠して生きていきたいと再確認しているこの頃である。   (2005年5月)

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