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2005年12月号編集後記

 今年は、「東京精神病院事情2005年版」を発刊した。私達は、医療側に情報開示を求めてきた。まだまだ途上だが、意識としては業界にもかなり浸透してきている。では振り返って、ユーザーやその家族はどうだろうか?「社会の偏見」を盾にして、殻に閉じこもってはいないだろうか。つい最近、こういう例に遭遇した。
 「センター」が電話相談から関わり、訪問、関係機関への連絡等を通して一定の解決に至った事例がある。地域で家族が慢性期の患者を支えて生活することが、現状の医療やケアサービスのあり方では、如何に難しいかということを記事にしようと思った。相談者である家族に、居住地や個人などが特定できないようにし、地域医療やケアの問題点や難しさに焦点を当てた記事を書くから了承してくださいと気軽に連絡をした。その人は、いろいろな社会資源の利用の仕方や行政への働きかけにも積極的で、何よりも「センター」に相談を寄せるぐらい活動的な人だったから、返事が否だったことは意外で戸惑った。「いろいろお世話になって申し訳ないですが、読む人が読めばわかるから・・・」ということだった。いまだに、拒否の理由は飲み込めていない。「おりふれ通信」などの説明をし、一応の説得の後、諦めた。
 一般社会は精神医療、特に精神障害者やその家族のことなど本当に知らないのだ。知らなければ人々は理解も出来ず、この分野のよき理解者は生まれない。社会の差別・偏見があることは現実だが、その被害者意識だけをいつまでも叫んでいても現状は良くなっていかない。ユーザーやそれを支える家族の不安、辛さそして小さな喜びなど、まず信頼できる大・小メディアを通してどんどん知ってもらう機会を作っていくべきだと思う。ある研究で精神障害者における自己差別を取り上げていたが、そういう実情にも向き合う時期に来ていると思う。2006年は、ユーザーも家族も、もっと社会に“情報公開”をして、自分達を知ってもらう年にして行きましょうよ!    小林信子

 全人類史の努力の至高の達成の凡て(それは「種としての人間の自己規定」に他ならぬ)が、今、マモンの神のギラギラした輝きによって次々にその光を失い、影の如く、そして永遠に消え去ってゆく光景の目撃者となるの憂に際会せざるを得ぬこの「現代」にまで不思議にも生を保つことになろうとは・・・
 「現代」、それは真実への虚偽の公然たる嘲笑、勝ち誇る野蛮と不寛容、精神的価値へのシニスム、己れの無知に対する無恥な開き直り、etc,etc,etc
 もとよりこのペシミスムを以て私の総てとするのもまた甚だしく己れを偽ることになる。人類の未来の予定調和に何故かこの期に及んでなお盲従しているのもこの私なのだ。
◇訂正 本紙10月号拙稿 7頁左中段やや下「私達」→「私」    岡本省三

 今年もあっという間に1年が終わろうとしている。あまりにいろんなことがありすぎて、春先の出来事など忘れる勢いだ。幼い子どもが犠牲になる事件なんかは何を信じたらいいのかわからなくなってくる。病院の中にも防犯カメラを設置する時代だ。安心して住める所はもうないのだろうか。          佐藤朝子

 今年は久しぶりに編集委員に復帰でき、またこれまでの仕事を括る「当事者職員として働いてみて・・・その後」をまとめることが出来ました。読者の皆さんのご感想・ご意見をお寄せいただければ、大変ありがたいです。
 この頃どういう訳か、昔働いていた精神病院の夢を頻繁に見ます。新しく建て替えられた病棟に忍び込んでは、沢山のなつかしい患者さんに再会したり、再度就職して働いている夢です。
 長期入院を強いられている多くの患者さん達に、残された時間はあまりありません。このままひとりひとりの患者さんの人生は闇に葬られてしまうのでしょうか。そして国家の責任も。何か自分に出来ることはないだろうかと、からだに相談しながら考えあぐねている昨今です。
                久保田公子

 毎年この時期になると嫌でも1年を振り返らされているここ数年ですが(編集長ごめんなさい)、今年ほどいろいろあった年は初めてだと思います。それはもしかしたら、年齢のせいで刺激に弱くなっているからとも思うのですが…そして、幸か不幸かこれがまだしばらくは続きそうです。全体の状況はあまり明るくはないようです。明るくないと自分の足元しか見えなくなってしまいます。そんな時は少し動いて、自分の足元を広げていくしかないのでは・・・と思っています。  中嶋康子

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連載最終回「当事者職員」として働いてみて‥その後

久保田 公子

○私の病い観・「障害」観
私は今まで病いや「障害」というものをどうとらえてこの仕事をしてきたのだろうか。長くなるが、これまで書き記してきた文章の中から、振り返ってみたい。
『そもそも私が今の仕事を選んだきっかけは、自分の限界に悩んでいたとき、自分の状態と「病者」といわれる人たちとは、何か共通するものがあるのではないかと思ったことにありました。その後のかかわりの中でやはり違うのではないか、と思ったこともありましたし、それがある意味では「ケースワーカー」としてかかわっていくことを自分に許したのかもしれないと思っています。確かに違いはあるとしても、それをまったく異質なもの、あるいは「症状」としてきってしまうのではなく、あくまで私たち「正常」といわれる人間にそれぞれ内的世界があるように、「病者」といわれる人にも同じようにそれぞれの世界があり、またそれが形成されていくそれなりの道すじが、個々にあるのだということを忘れてはならないと思います。』
『私たちは「病気」というものを、とかく否定的にのみ考えがちであるが、「病気」はその人がおかれている危機状況のあらわれであり、それを乗り越えることが出来たときには、新しい自分になっているような、そういう面もあるのではないだろうか。』
以上が、病院に就職して1~3年くらいの頃の病い観であり、作業所時代には次のように書いている。
『作業所の中で視えてくる「病い」は病院のそれとはやはり違っている。その人の生活と、生と分かちがたくある「病い」。それゆえに、その重さを、生きがたさをより感じさせられたこともある。しかしそれは、外側からの操作的な「治療」によってではなく、生活の中で、様々な関係性の中で、その人の内側から癒され「治癒」していくものなのだろうと思えてならない。』
『ふり返ってみれば、病院時代の私の「病者観」「障害者観」はずい分と一面的で、観念的であったと思う。今ようやく、私自身もメンバーも、この社会の中で揺れ動き、闘いつつ、でもある時は人を恨んだり、排除したり、差別さえもしてしまいながら、あるがままの自分、互いを認め合える他者とのつながりを求めて試行錯誤している同じ人間・仲間と思えてきた。』
これらの考えは今も基本的には変わっていないが、自分が病いを体験してくる中で、より深い実感を伴ってきている。上述した最後の引用文については、とりわけそうである。病院時代は、「虐げられた環境に耐えながらも、人をほっとさせるやさしさを持ち合わせ、時にはç—(‚½‚­‚Ü)逞しい知恵を働かせて日々を生きる患者さん達」に私も救われ支えられてきたのであり、また病いを抱える人たちは、「純粋」で私たちを縛る世間の規範や価値観からも遠く離れた人たち、と受けとめていたような気がする。しかし作業所や現在の地域生活支援センターのオープンスペースでかかわり合う中で感じるのは、私を含めて、負の部分や弱さを持ち合わせたもっと生臭い、あるいは「味のある」人たち、と思える。
そして今、改めて思うのは、病むことや「精神障害」をもつことは、その人の心や体、さらには社会に対する危機のサインでありメッセージであるということである。それゆえ、そうしたサインやメッセージが意味するものを一緒にさぐりながら、新たな生き方や再生への過程をともにし、社会のありようをもともに考えていければ、と職員でもある私は思う。病む人や「障害」をもつ人たちとのつきあいは、人と人とのつながりや社会のありようについて、より深く考えさせられるからである。
また、強く心に残っている一つの光景がある。老人ホームで「痴呆症」と言われる、あるおばあさんの入浴介助をしていた時のことである。誰もいなくなった、大きな浴槽の中につかりながら、その人は、ゆったりとおだやかに、歌を唄っていた。その光景を目にしながら、私は、「至福の時」と言いたいほどの満ち足りた気持・時間を味わった。「認知症」と言われるようになった人たちの心中を知ることは、私にはまだ出来ないが、少なくとも私にとっては出会えて良かったとしみじみ思える人たちである。
そして精神病院で出会った「知的障害」をもつ人たちは、その存在のかけがえのなさを体まるごとでもって表現し、問うており、私の心をふんわりと豊かにしてくれた。
 私の部屋には10年余り前から1枚の絵が飾ってある。それは、ある「知的障害」をもつ人の、チューリップが大きくあざやかな色あいで描かれている絵「私咲いてる」である。私はそれをながめては「こうありたいなあ」と願い、時にその絵は、「咲いてる?」「咲こうね」と私の心を支えてくれている。

○私の「今」
 ひとことで言うなら、私はずいぶんと楽になった。まずは、幼少期からの課題であった、「自分を過大にも過小にも視ることなく、ありのままの自分を認め、受け入れること」が出来るようになった気がするのである。これまでの私は、自分への自信のなさから、他者に向かって自分をひらいていくことが苦手であった。このことは、他者へのまなざし・他者とのつながり方における変化にも通じている。これまで私は、その人の全体を視ることなく、一部分だけをとらえて過大視したり、逆に過小評価して批判の対象としてのみ見がちであった(差別的な人や考え方が根本的に違う人に対してそうなりやすい)。そこからは人と人が対等につながり、学び合う関係は生まれない。そして、自分も他者も、「役に立つか否か」や「社会に貢献できるか否か」ではなく、存在そのものを認めうるような関係を作っていきたいと思う。
 また福祉の領域で身に付けがちな「ˆß(‚±‚ë‚à)衣」=相手を「対象」としてしか視れなくなる姿勢、「支援しなくては」という気負い、さらには「支援する」「頼られる」ことに依拠して自分を支えがちな在り方等からも解き放たれつつあるのを感じている。今の私にあるのは、「支援する・している」という感覚では殆どなく、一緒に悩んだり、考えたり、情報を伝えたり、出来ることがあれば力を貸したり、喜び合ったり、感動したり、という「ふつうのつきあい」あるいは「応援する」といった感覚である。
 そしてこれらの変化を手にし得たのは、揺れ動き、浮き沈みの多かった私に辛抱強くつき合ってくれたパートナーや友人たち等の支えはもちろんのこと、「この仕事に就いていたからこそ得られたものなんでしょうね」という主治医のことばそのものだと思える。これが、もうすぐこの仕事に就いてから20年になる私の「今」である。

○おわりに
 とはいえ、これからも揺れたり葛藤するかもしれない。でもこの実感を忘れず、この「今」に立ち戻って考え続けていきたいと思う。そして相手が分ってくれるかどうかはともかく、伝えたいことを伝え、新人職員や非「専門家」からも学ぶ姿勢をもち続け、「こなれた」職員・「専門家」にはなりたくないと思う。
 最後に、今の私にとって残された課題は、いくら「ふつうのつきあい」とは言っても、私はそれを仕事として糧を得て生活しているのであり、あくまでカッコ付きのものだということだ。これを解決するためには、もっと生身のつきあいが必要なのだろうか。それとも、このような仕事=「特殊な場での特別の人のためのもの」にとどまる福祉がなくなるような世の中・暮らしをつくっていくことで解決し得るのだろうか…。ともかく今後も、社会の状況に目を向けつつ「当事者であること」(今の私は「精神障害者」と呼ばれてもおそらく平気だ─「女」ということばを痛みとともに忌み嫌った時期があったがある時点からむしろ誇りをもつようになっ
たように─)、「資格者ともなった自分」、「労働者としての自分(私は精神病院で組合つぶしのために解雇されたことがある)」、ある状況下に在る人に対して知らないがゆえに差別・抑圧してしまうかもしれない一人の人間として、また私にとって最初の被差別体験としてあった「女であること」に依拠して生きていきたいと再確認しているこの頃である。   (2005年5月)

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ピアサポートグループのこと/日本精神障害者リハビリテーション学会@大阪に参加して

石井真由美

 私が立川りらくに参加している理由は、ここで退院促進活動をしていたからです。
 私は17歳から5回入退院を繰り返しています。一番短い入院期間で一ヶ月、長くて二年間です。この入院体験、入院生活がいまだに私へ様々な影響を及ぼしています。その中でも、当時、長期入院していた仲間や亡くなってしまった仲間のことは、ふとしたことで強く思い出したり、ぼんやり感じたり、名前を次々あげたり、私の中にずっと居ます。そうすると、感覚がボーッとしたり、感情が乱れたり、罪悪感や無力感に襲われたり、辛くなることが多いけれど、どうしようもなく皆に会いたくなって寂しくなったり、仲間のおもしろい口癖とか思い出して一人で笑ったりすることもあります。
 私は今、病院から出て一人暮らしをしているけれど、皆どうしているか、まったく想像がつきません。だから、当時のまま、ずっと皆は私の中に居続けています。そして、私もそこから離れることはできません。だから、私が抱えている真ん中の苦しみ(もっと詳しく書いたほうがいいだろうか。でも書くと余計こんがらがると思う)に直接触れる、りらくの活動に恐れや動揺を抱きながらも強くひかれました。
 初めてT病院を訪問した時、入院患者さんたちと向き合って、自分と何が違うのかよく分かりませんでした。特に大きな違いはなくて、どうして患者さん達は中に居て、私は外で暮らせているのか謎です。でも、ならば、どう考えても現在、長期入院している仲間達は本人の問題よりも、外側の環境や条件が整えば誰でも退院するチャンスはあると、社会的入院の意味を実感しました。
 現在のりらくは、病院へ訪問し、直接入院患者さん達と交流する活動しかしていませんが、やはり、気持ちだけ退院促進しようとしても、社会的資源、受け皿の問題が整わない限り、上手くいくはずがないという当然の壁にぶち当たっています。
もともと社会的入院を強いられた人達なのだから。
でも、一度にすべての問題を私達が触れることは無理で、役割分担的に病院訪問のみを行っていました。けれど、最近りらくメンバーの中から、入院患者さんへ、なるべく新しい正確な情報を提供するためや、退院後の生活までを見通し、作業所やグループホームの見学、連携等、活動を広げていく必要があるぞという気持ちや考えが生まれています。だってあまりにも社会的資源が乏しいからです。退院後の生活は、私達の問題と重なるので、これは他人事ではなく私達自身、再入院せず、安心して地域で生活するために役立つ活動になると思います。大阪の研修に参加することで、また一段とこんな気持ちが刺激され強まったようです。

 12月3日、大阪で行われた日本精神障害者リハビリテーション学会の「希望は足もとにある―語り合おうピアサポート」というシンポジウムに参加しました。
 当事者が4名と専門家1名が、ピアサポートをする中で、大変なこと、得られること等を、自分の体験と共に話してくれました。4日のシンポジスト澤居さんの話はとても心に残っています。入院中、包布交換やお風呂の日で、曜日の感覚はあれど日にちの感覚がなくなり、何だか知らない間に時間が経っているというのは、もうまさしくその通りと思います。(私の病院は水曜日が包布交換だったよ)
 この頃「当事者活動は大阪に学べ」という言葉を何度か聞いていました。実際、シンポジウムに参加し、大阪の仲間は苦労を抱えつつもエネルギッシュで、活動内容や、範囲も様々な広がりを持っているようでした。例えば、どんな利点や不都合さがあるか、まだ勉強不足でよく分かりませんが、大阪ではピアサポーター・ピアヘルパー・ピアカウンセラーが制度化しているそうです。
 「どうして大阪はこんなに活動が活発なのだろう」という疑問を抱いたのは、私だけではなく、質疑応答でこの質問をされた方がいました。
 すると、シンポジストの方が、大和川病院の事件のお話をされました。行政、病院、施設、家族、地域、の身勝手な必要を満たすため、入院患者達に自分達が負い切れぬ責任を押し付けた結果、最悪の事態、事件が起きた。起きていたけど隠されていた。この悲惨な事件を踏まえ「二度とこんなことが起こらないために」という反省のもと、活動が強まっていった流れを教えてくれました。とくに、行政の責任は大きく、それらを問うため、オンブズマン制度をつくり、当事者が自分達のことを決める会議には「当事者抜きで当事者のことを決めるな」と、どんどん参加していくようにしているそうです。また、病院の質の向上を求め続けるため、病院の保護室などをチェックし、入院中の患者さん達と話す機会をもつ等、より開かれた病院づくりにも大きな刺激を与え続けているようでした。

こんな事実にしっかり向き合ってしまったら、ちゃんと見て感じてしまったら、もう見ない振りをする方がよっぽど見えないエネルギーを使い果たすことになるのだろうと感じました。「やるしかない」「なにかできることをやるしかない」と、突き動かされます。私が、りらくの活動にひかれた原動力もここにあるのだと何となく感じます。
 あまりにも強烈な体験をしてしまうと、焦燥感や痛みから、その体験に体を奪われることがあります。なるべく、自分でもコントロールし、限界を踏まえ、病気、症状のケアは怠らないよう心がけていますが、どうにも止まらない時があります。
こうなる時は、仲間や信頼できる人たちに注意してもらいます。

 私は今、アパートで一人暮らしをしているけれど、病院から脱出して十数年経っているけど、ずっと外で住めている感覚を持てずに、長いことあの世とこの世の狭間で生きています。だから長期入院している患者さん達が包まれている感覚は、本当は外に出ても拭えないと思ってる…。でも、私は入院生活より、外の生活のほうがいい!

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思わぬ入院生活をして

飯田文子

 11月から12月にかけて25日間、総合病院の整形外科病棟に入院した。その体験を「東京精神病院事情 」風に報告する。
[入院の手続き]
 外来受診時に個人情報保護法に基づく書面を渡され、サイン。入院が決定した段階で同じ書面を渡されサイン。退院まではずさないID番号の入った腕輪を右手首に着けられる。昨年の精神病院調査で訪問した病院のひとつに、訪問時時限ストライキ中で夜間は、派遣の看護師が入るため、しかたなく夜間のみ腕輪をしているというところがあったが、一般総合病院は認識のための腕輪は常識となっているようだ。点滴薬等の間違いを防ぐためとは思うが、人の顔などによる認識はID番号による認識よりも低く見られているようだ。個人情報保護に関しては2回もサインをしたが、入院生活についての説明はされなかった。私としては絶対安静を言い渡され、自分でトイレに行けないことが一番の不安だったが、そんなことは病院スタッフにとっては当たり前のことなのか、あまり説明はなかった。
 入院の翌日家族を呼び、病状と手術の説明があったが、家族だけが別室で説明を受け、私は家族からその説明を聞いて承諾のサインをした。医師から私への説明はなかった。
[病棟の環境]
 昨年の精神病院訪問で新築の精神病院を見てきた私には、古く狭く感じた。整形外科病棟なので車椅子を使用する人も多いが、廊下は車椅子がすれ違う広さはあるが、昼間は治療・処置の用具を乗せた台がいくつも置いてあり狭い。6人部屋に入ったが、ベッド間は車椅子がギリギリ入る程度。ベッド周りのカーテンはある。各ベッドにカード式のテレビと床頭台がある。2つの病棟に1ヶ所のデイルーム。面会室、診察室はない。部屋でのプライバシーはないに等しい。私がよく利用した喫煙所は、建物を出た駐車場の中にあったが、いずれなくなるのだろう。
[病棟の生活]
 6人部屋の6人のうち、途中から車椅子で動くことができるようになった私を含めて、3人が比較的自由に動くことができた。残りのうち1人は、私の入院中はほとんどベッドから動くことができず、ナースコールで看護師を呼んでベッド上でのトイレ。ナースコールをしても看護師がすぐ来られないことも多々あった。あとの2人は助けがあれば車椅子に移動でき、1日15分程度のリハビリもやっていた。
 1日の流れは朝6時起床、8時朝食、12時昼食、18時夕食、22時消灯。22時から6時はテレビも消える。食事はベッド上。風呂は週3回。外出は6時から22時までは可能な様子。私は外出許可の出た入院8日目からほとんど毎日外出し、外食をするという周りからはあきれられる生活を送った。
[スタッフについて]
 入院中の生活は看護師を中心に動いている。「看護師命」である。当然いろいろなタイプの看護師がいる。手術前に寝たままシャワーを浴びることがあった。その時介助についた看護師は最初から自信がなさそうだったが、シャワー室で「顔も洗ってほしい」と言ったら、シャワーを寝ている私の顔のあごの方からかけたので危うく溺れ死にそうになってしまった。ベッドから動けない私が箸を洗ってくれと頼んだら、湯のみのお茶に箸の先をチャチャッとつけて渡してくれた看護師もいた。
 スタッフ間では毎朝ミーティングがあり、申し送りをしていたが、意外に伝わっていないことが多いと感じた。私は手術の前日浣腸をした。それまで絶対安静、ベッド上での大小便を強いられていて、入院以来大便は出ていなかったが、浣腸をする看護師はそれを知らなかったのか、あらためて質問された。手術前でもあり、ちょっと不安になってしまった。
 同室のAさんは寝たきりの状態だったが、ある日の食事時、看護師に「パンは食べられないからご飯、それもおかゆにしてほしい」と頼んでいた。それから3日ほどして大回診(医師数人と看護師、リハビリ担当者による回診)の時、Aさんがまた同じことを医師に頼み、看護師が「今夜は無理だけど、明日の朝からは大丈夫ですよ」と話しているのを聞いて、3日も経つのにまだやってなかったのか!と驚いてしまった。
 看護師はルーティンの仕事以外にも、ナースコールで「水を持ってきてくれ」「便器を持ってきて」「トイレに連れてって」「車椅子に乗せて」「気持ち悪い」「吐いてしまった」「熱がある」・・・等々ひっきりなしに呼ばれ、大変な忙しさである。回診の時、医師から「そろそろ退院だね」とか「手術が必要かも。考えといて下さい」と言われて、悩んだり混乱してしまう人もいたが、フォローしたりほかの相談者に紹介したりするのも看護師の仕事の一部と思うが、そこまではなかなか手が回らないようだった。退院後の生活等についてはリハビリ担当者が話しを聞いている様子だったが、ソーシャルワーカーは、私の6人部屋では一度も登場しなかった。[退院して]
 この文は自宅で書いている。入院患者としては、毎日外出・外食するという随分自由な生活を送った。それでも自分で考えたものを食べられ飲める生活に戻れ、何よりもいつも誰かがそばにいる生活から離れられて、ホッとしている。

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