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連載第4回「当事者職員」として働いてみて‥その後

久保田公子

○「病気」「障害」というフレーム
私たちは、「精神障害者」と言われる人と出会った時、まずは「病気」「障害」というフレームからその人を見てしまうことが多い。医療や福祉の場においてはなおのことそうなってしまいやすい。一人の生活者としての様々な面、その人が「健康」であった頃のこと、病いに至るその人の固有の過程にどれだけ思いを馳せているだろうか。
先述したように、私はまず何人かの人たちから「当事者の職員」として見られ対応された。それは出会った場の性質上いたしかたないことかもしれない。また初めはそうであっても、つきあいが長くなるに従って変わってきた面もたくさんある。しかしなお、この「フレーム」にこだわって考えてみたい。「健康」であった頃の私という人間に対しては関心をもたれることはまず殆どなかった。もたれたとしても、それは一種「別物」として扱われたように感じた。では、パートナーや友人たちはどうだったか。彼・彼女らは、私が生きてきた過程や私の様々な面を知っており、病気はそれらとひとつながりのものとして接してくれた。主治医も幸いにしてそうである。ではかつて精神病院で働いていた頃の私自身はどうであったか? 振り返ってみるに、少なくとも病気をその人が生きてきた歴史と切り離さずにとらえてその人を知りたかった。しかし患者さんはあきらめの果てか、多くを語らず、分厚いカルテ・看護記録からも「無為自閉」「特変なし」の記載が随所に見られるだけで、知る由はなかった。そして、そのような医療・病院のありよう自体を変えていくことが、私にとってはまず大きな課題だった。作業所で働いていた頃はどうだったろうか? 新聞作りを中心とした表現活動や「メンバー主体」の運営をメンバー・他の職員とともに考えていく中で、メンバーがもっている力に驚かされ感動し、共に作り上げていく喜びを分かち合ってきた。しかし、病院時代に不十分にしか出来なかった個々の患者さんが抱えていることへのかかわりという課題を、責任ある立場に立たされたことも影響してか、いつの間にかメンバーの「把握」という形にどこかで変質させてしまった面があったような気がする。そして地域に開かれた場であることを常に模索してはいたが、やはり「特殊な場」でしかなく、「職員」「支援する側」「健常者」という立場を乗り越えることの限界があった。この限界を乗り越える糸口を、私の場合は上述したように、自らが病いを抱え「当事者職員」として働くことでつかむことが出来たように思う。(ここまでに至る過程には以上のように様々な葛藤があった。「障害の受容」ということばが支援する側からよく言われるが、そのことに最近の私は傲慢さのようなものを感じてしまう。)

○Aさんに支えられた
 私は利用者のAさんと1年半ほど前からかかわりをもつことになった。Aさんは、あるデイケアに通っていたが、集団の中でうまく仲間とつながることが出来ずに悩み、酷なほどに苦しんでいた。そしてその苦しみをデイケアの中でぶつけてはまた孤立してしまう、という悪循環に陥ってしまっていた。このような状態を別な場面での一対一の関係の中で少しでも和らげることが出来れば、というデイケアの担当ワーカーとAさん自身の願いで週に一度私と会う時間をもつことになったのだった。このような経過もあり、私とAさんとのかかわりは、当初は私がAさんの怒りや苦しみを受けとめることを主にしたものだった(Aさんは今、これまでの苦しさ・孤立感をバネにして、自らの力で何かをつかみとっているように思われ、私はただただ感動させられているのだが)。そんなある日のこと、私は他の職員との考え方の違い等で悩み、ショックを受けたその気持を引きずったままAさんとのいつもの時間をもった。今にも泣き出しそうな私の表情に気づいたAさんは、すぐさま「どうしたの?」と声をかけてくれ、途端に私は泣き出してしまった。そんな私にAさんは、「泣いていいよ。久保田さんだって人間だもの。いつも私の話を聴いてくれてるじゃない。久保田さんだって泣いていいんだよ」としっかりと温かく言ってくれたのだった。Aさんの気持に私が「当事者職員」であることが関係していたかどうかは分からないが、一方的ではない「双方向」の関係のありようを感じさせてくれた。

○ことばがひらかれた
 この病気になってから、私は強く印象に残る夢をいくつか見たが、2~3カ月前に見た夢はかなりショッキングなものだった。私は誰かにおおいかぶされ、押さえつけられていた。「誰がこんなことをするのか」と、何とか振り払ってその者の顔を見ようとするがなかなか目が開かない。しばらくもがいてやっと振り払い目を開けると、枕の横にその者の顔=私の顔があった。一体この夢は何なんだろうと終日考えたが、まさに「自分で自分自身を抑え込んでいた」ということだと思えた。その夢を見たのは、スタッフ会議でたまりにたまっていた想いや意見をぶつけた日であった。そしてその夢を見て以降不思議なことに自然にことばが出てくる自分に気がついた。
 私は20代の時に、人とのかかわりにおける自分の限界に悩んで、竹内敏晴氏が開いていた「からだとことばの教室」という所に通っていたことがあった。その教室は、様々なレッスンを通してからだの歪みやからだと心のつながりに気づき、自分自身を解放し、他者と触れ合っていくことを目指していた。そしてそこは、はからずも精神科ソーシャルワーカーという職業があることを知り、この道を選ぶきっかけとなった場でもあった。他者のまなざしの中で、自分のコンプレックスや防衛心と向き合わざるを得なかったある日のレッスンのあくる日、私はお腹の底から笑いがこみ上げてくる自分に気づいた。それまでわずか6人の社員の中にとけ込めず、身を固くして息を殺すかのようにしていた職場の中で、である。その時の感覚は強く残っており、それは今、ことばが自然に出てくる感じとよく似ている。そして、自分が変わるとまわりも変わってきたように思えるのも偶然ではないだろう。ちなみに竹内氏は、著書の中で「われわれは歪んでおり、病んでいる。スラスラとしゃべれるものは、健康という虚像にのって踊っているにすぎますまい。からだが、日常の約束に埋もれ、ほんとうに感じてはいない。そこから脱出して、他者まで至ろう、からだをひらこう、とする努力─それがこえであり、ことばであり、表現である、とこう言いたいのです。そしてそれを他者が見、それが他者にうつってゆくとき、例えば連帯とか、共闘というようなことも、そのいとぐちがひらいていきうるのではないでしょうか」と書いている。まさに私の中で「ことばがひらかれた」、そんな気がしている。        (つづく)

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