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10月1日 やっと出版にこぎつけました!「東京精神病院事情」第5版1998→2003

東京精神医療人権センター・東京地業研 木村朋子

 昨年8月号でお知らせしたように、昨年9月都内精神病院訪問調査を開始した。今年4月、8ヶ月かけて調査が終わり、その結果のまとめ「東京精神病院事情」第5版1998→2003が、10月1日ようやく出版の運びとなった。
 何回か電話や手紙で説明・お願いをした結果今回は、33病院への訪問調査が実現した。前の版からの5年間に、大きな変化を遂げた病院が数多くあった。古い病棟を建て替え、広く明るい病棟に生まれ変わり、ベッド周りのカーテン始めプライバシーやアメニティへの配慮がされて、職員数が増えた病院もある。長期入院者への働きかけに力を入れ、活動性が上がった病院もある。その一方で、残念ながら旧態然とした病院も未だあった。
 本の内容は、前回同様、こうした個別病院の訪問レポート中心に、東京都精神病院統計に基づく全病院のレーダーチャート(今回若干指標・基準を改定)と、1987年以来の点数変化を載せた。訪問を受け入れなかった病院については、交渉の経過を簡単に述べてある。
 もとより33病院では、都内精神科80病院の4割にしか過ぎず、しかも前回(2000年版)の35病院にも及ばず、調査受け入れ病院がもっと増えないと全体像は見えない。今後の課題である。しかし公的な存在ではない私達の訪問調査を受け入れて下さった病院の中には、「日本医療機能評価機構の評価を受けているが、それとは異なる“市民”の目から見た評価を期待し、病院改革のきっかけや励みにしている」、「患者さんのプライバシーの問題はあるが、病院を知ってもらう努力の方が先」などの声もあり、私達にとっても励みになった。
 病院統計のデータで調査協力病院群をそれ以外と比べると、都内の年間入院者約25,000人のうち15,000人、6割がこの病院群に入院しており、回転率も高く、常勤医師、看護者、コメディカル職員数ともに、調査非協力病院群より圧倒的に充実していた。私達のような素人を含む市民・社会に対して病院を開いていこうとする姿勢が、病院の活動性や人的資源の充実、自信と比例している。私達は「訪問調査受け入れ病院が、まずは評価に値する病院」との基本姿勢をもって本づくりをしているが、その姿勢がデータ上裏づけを持つことをあらためて確認した。
 また今回は5年前より、準備段階でも、本の原稿仕上げ(前回は恥ずかしながら誤字・脱字だらけだった)においても、大勢が参加・検討した。そのため本の刊行は予定よりかなり遅れてしまったが、完成度は以前より高いと自負している。
 昨年8月号で宣伝したホームページ
http//www.arinomama.netもその後、データ部分は「工事中」が続き機能していなかったが、今後2005年版の訪問レポートやレーダーチャートを掲載して、メールでも病院体験談やコメントを受けていけるようにしたい。ホームページに2005年版の予告を載せたところ、既にいくつかの注文がきていて、見ていてくれる人がいるんだなぁと心強い。
 おりふれ読者の皆様にもお願いです。この本を多くの人に購入していただきたい。そして周りの人にも宣伝して下さい。                             page002
お申し込みは、
東京地業研       
〒190-0022 立川市錦町3-1-33
TEL/FAX 042-524-7566
東京精神病院事情 1998→2003
東京精神医療人権センター・東京都地域精神医療業務研究会編 A4版 244頁 2,000円

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連載第4回「当事者職員」として働いてみて‥その後

久保田公子

○「病気」「障害」というフレーム
私たちは、「精神障害者」と言われる人と出会った時、まずは「病気」「障害」というフレームからその人を見てしまうことが多い。医療や福祉の場においてはなおのことそうなってしまいやすい。一人の生活者としての様々な面、その人が「健康」であった頃のこと、病いに至るその人の固有の過程にどれだけ思いを馳せているだろうか。
先述したように、私はまず何人かの人たちから「当事者の職員」として見られ対応された。それは出会った場の性質上いたしかたないことかもしれない。また初めはそうであっても、つきあいが長くなるに従って変わってきた面もたくさんある。しかしなお、この「フレーム」にこだわって考えてみたい。「健康」であった頃の私という人間に対しては関心をもたれることはまず殆どなかった。もたれたとしても、それは一種「別物」として扱われたように感じた。では、パートナーや友人たちはどうだったか。彼・彼女らは、私が生きてきた過程や私の様々な面を知っており、病気はそれらとひとつながりのものとして接してくれた。主治医も幸いにしてそうである。ではかつて精神病院で働いていた頃の私自身はどうであったか? 振り返ってみるに、少なくとも病気をその人が生きてきた歴史と切り離さずにとらえてその人を知りたかった。しかし患者さんはあきらめの果てか、多くを語らず、分厚いカルテ・看護記録からも「無為自閉」「特変なし」の記載が随所に見られるだけで、知る由はなかった。そして、そのような医療・病院のありよう自体を変えていくことが、私にとってはまず大きな課題だった。作業所で働いていた頃はどうだったろうか? 新聞作りを中心とした表現活動や「メンバー主体」の運営をメンバー・他の職員とともに考えていく中で、メンバーがもっている力に驚かされ感動し、共に作り上げていく喜びを分かち合ってきた。しかし、病院時代に不十分にしか出来なかった個々の患者さんが抱えていることへのかかわりという課題を、責任ある立場に立たされたことも影響してか、いつの間にかメンバーの「把握」という形にどこかで変質させてしまった面があったような気がする。そして地域に開かれた場であることを常に模索してはいたが、やはり「特殊な場」でしかなく、「職員」「支援する側」「健常者」という立場を乗り越えることの限界があった。この限界を乗り越える糸口を、私の場合は上述したように、自らが病いを抱え「当事者職員」として働くことでつかむことが出来たように思う。(ここまでに至る過程には以上のように様々な葛藤があった。「障害の受容」ということばが支援する側からよく言われるが、そのことに最近の私は傲慢さのようなものを感じてしまう。)

○Aさんに支えられた
 私は利用者のAさんと1年半ほど前からかかわりをもつことになった。Aさんは、あるデイケアに通っていたが、集団の中でうまく仲間とつながることが出来ずに悩み、酷なほどに苦しんでいた。そしてその苦しみをデイケアの中でぶつけてはまた孤立してしまう、という悪循環に陥ってしまっていた。このような状態を別な場面での一対一の関係の中で少しでも和らげることが出来れば、というデイケアの担当ワーカーとAさん自身の願いで週に一度私と会う時間をもつことになったのだった。このような経過もあり、私とAさんとのかかわりは、当初は私がAさんの怒りや苦しみを受けとめることを主にしたものだった(Aさんは今、これまでの苦しさ・孤立感をバネにして、自らの力で何かをつかみとっているように思われ、私はただただ感動させられているのだが)。そんなある日のこと、私は他の職員との考え方の違い等で悩み、ショックを受けたその気持を引きずったままAさんとのいつもの時間をもった。今にも泣き出しそうな私の表情に気づいたAさんは、すぐさま「どうしたの?」と声をかけてくれ、途端に私は泣き出してしまった。そんな私にAさんは、「泣いていいよ。久保田さんだって人間だもの。いつも私の話を聴いてくれてるじゃない。久保田さんだって泣いていいんだよ」としっかりと温かく言ってくれたのだった。Aさんの気持に私が「当事者職員」であることが関係していたかどうかは分からないが、一方的ではない「双方向」の関係のありようを感じさせてくれた。

○ことばがひらかれた
 この病気になってから、私は強く印象に残る夢をいくつか見たが、2~3カ月前に見た夢はかなりショッキングなものだった。私は誰かにおおいかぶされ、押さえつけられていた。「誰がこんなことをするのか」と、何とか振り払ってその者の顔を見ようとするがなかなか目が開かない。しばらくもがいてやっと振り払い目を開けると、枕の横にその者の顔=私の顔があった。一体この夢は何なんだろうと終日考えたが、まさに「自分で自分自身を抑え込んでいた」ということだと思えた。その夢を見たのは、スタッフ会議でたまりにたまっていた想いや意見をぶつけた日であった。そしてその夢を見て以降不思議なことに自然にことばが出てくる自分に気がついた。
 私は20代の時に、人とのかかわりにおける自分の限界に悩んで、竹内敏晴氏が開いていた「からだとことばの教室」という所に通っていたことがあった。その教室は、様々なレッスンを通してからだの歪みやからだと心のつながりに気づき、自分自身を解放し、他者と触れ合っていくことを目指していた。そしてそこは、はからずも精神科ソーシャルワーカーという職業があることを知り、この道を選ぶきっかけとなった場でもあった。他者のまなざしの中で、自分のコンプレックスや防衛心と向き合わざるを得なかったある日のレッスンのあくる日、私はお腹の底から笑いがこみ上げてくる自分に気づいた。それまでわずか6人の社員の中にとけ込めず、身を固くして息を殺すかのようにしていた職場の中で、である。その時の感覚は強く残っており、それは今、ことばが自然に出てくる感じとよく似ている。そして、自分が変わるとまわりも変わってきたように思えるのも偶然ではないだろう。ちなみに竹内氏は、著書の中で「われわれは歪んでおり、病んでいる。スラスラとしゃべれるものは、健康という虚像にのって踊っているにすぎますまい。からだが、日常の約束に埋もれ、ほんとうに感じてはいない。そこから脱出して、他者まで至ろう、からだをひらこう、とする努力─それがこえであり、ことばであり、表現である、とこう言いたいのです。そしてそれを他者が見、それが他者にうつってゆくとき、例えば連帯とか、共闘というようなことも、そのいとぐちがひらいていきうるのではないでしょうか」と書いている。まさに私の中で「ことばがひらかれた」、そんな気がしている。        (つづく)

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「本当に困った人のための生活保護申請マニュアル」(湯浅誠著 同文館出版)を読んで

精神医療ユーザー  石井真由美

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<編集部から> この8月に出た同書は、「おりふれ」にも再三登場している野宿者支援グループ「もやい」事務局長、湯浅さんの著。多くのホームレス状態の人達に付き添って、福祉事務所の厳しい対応を見てきた体験に基づく、最悪の福祉事務所員を想定し、生活保護をどう闘い取るかのリアルな指南書である。

 8年前、突然母から電話があった。「まみちゃん、お父さんの現場が潰れて仕事がなくなったの。もうお金を送ることができないの。ごめんね」「私の生活費、あとどのくらいあるの?」「1ヶ月分くらいはあるかしら。とにかく先生(カウンセラー)に相談してね。ごめんね」母は何度も私に謝った。私は母をいたわる余裕も、責める余裕もなく、速やかに闘いに挑むしかなかった。ものすごく重くて黒い絶望と疲れを引きずり、目がチカチカしたけれども、まずは当時通っていたカウンセラーに電話をした。
 カウンセラーは、ケースワーカーの経験もあったので、「すぐに生活保護を受ける準備をしましょう」と、てきぱきといくつかのアドバイスを与えてくれた。結局、間違った指示も少しはあったが、私は最低限の武器は身につけて、生活援護課に挑んでいたのだと、この本を読んで確認できた。
 私の場合、まず電話することにした。生活費ギリギリで飛び込むという案も与えられたが、医師も素早く協力してくれたため、診断書がすぐに用意できたので出来る限り丁寧に段取りを踏んでいくことにしたのだ。ひどい対応をとられる可能性もあることを想定した。でも、私の病気の症状にとても強い対人恐怖と閉じこもりがあったので、想定しすぎると非常にまずかった。死にたい気持ちがバンバン出てくる。最悪だった。あんまりひどい状態になったので、友達に一晩中付き添ってもらったりした。入院も考えたが、精神医療、特に精神病院入院生活によるPTSDがある私は、どうしても入院を選択することはできなかった。「入院したら死んでしまう」と思った。だから泣いたり、喚いたり、震えたりして、でも闘うしかなかった。
 生まれて初めて生活援護課に電話した。初っぱなから「水際作戦」(=相談に来た人に生活保護の申請をさせずに、窓口で追い返すことをいう。本書P37)を浴びる。これは耐えた。「どこに住んでんの?」「いくつ?」「なんで働かないの?」という責めを帯びた男性職員の質問が次から次にきた。特に「なんで働かないの?」の質問に私の思考はヒートした。働かないのではなく、働けない。なぜ働けなくなったかを本当に聞きたいのなら、私は2時間かけても話し足りない。でもこの人は、そんなことを聞きたいのではない。ものすごい拒絶。お仕事だと理解していても、最も困っている時にこんなあからさまな拒絶を人から受けたら、私は倒れてしまう。電話を始めて間もなく私は何が何だか分からなくなってしまった。パニック状態になってしまった。そして訳の分からぬまま必死で応答しているうちに、私は武器を出したらしい。「診断書」のことを伝えたのだ。とても印象に残っている。診断書を持っていることを伝えると、明らかに職員の態度が変化した。私はこの日のうちに、初めの個別相談日の予約と、手続きの際持っていくものを聞くことができた。

 生活保護に1年半ほどかかってから障害年金を取り、遡及分約500万円をもらったので、保護を打ち切って暮らした時期がある。打ち切る前、担当さんは、私の場合戻るのは簡単だしまた手伝ってくれると優しい言葉をかけてくれた。でも1年半後生活援護課に行った時、もう担当さんはいなかった。この時説明をしてくれた人は、何か偉そうな役付きの人だった。正直言って感じ悪かったし、私の質問にはぶっきらぼうな答え方しかしてくれなかった。
 ようやく話しが終わり、とっとと帰ろうとしたところへ、私の場合もう30代後半で、女性で、病歴も長いし、先々のことを考えて都営住宅に応募するといいと勧められた。完全に私には明るい未来がないと言っているようだった。この時点で私はとても疲れていた。チックと手の震えも出ていた。後で考えたかったけれど、どんどん都営住宅の話が進み、「今応募用紙持ってくるから」と待たされた。早く却って横になりたかった。結局、応募用紙は手元にないので、もっと上の階の何とか課にあるから、そこで用紙をもらって来てと言われた。もう抵抗する気力もなかった。私は力尽きるとこうなってしまう。自分の意志や感覚が閉じていく。言われるがままに動く。頭はぼーっとして、疲れ切り、フラフラしながら指示どおり用紙をもらって、ようやく帰宅できた。
 私のような身の上の人間は、とにかく応募しなくてはいけないのかと思った。今度はそういう努力を見せないといけないんだと思った。で、たまたま仲間にこの話をしたら、仲間は怒って「そんなの余計なお世話ですよ。イヤだったら応募しなくていいんですよ」と教えてくれた。すっごくホッとした。なんか呪いが解ける感じがした。ちゃんと制度のことを知らないと、やらなくてもいいことや、行きたくないところへ誘導されることが本当にある。私は自分の症状を踏まえ、特に用心しなくてはならないと、本書を読みまた確認した。

 それから、この本を読むまで「宿泊所」のことはちゃんと知らなかった。ホームレス状態から生活保護の申請をすると、管理が厳しく、狭い相部屋の劣悪な仮住まいに誘導され、いつまでたってもアパートに転宅できないというのだ。ここを読んでいる時、20年前に入院していた閉鎖病棟のことを強く思い出してしまった。そして「宿泊所」と「閉鎖病棟」とどっちがマシか、本気で考えていた。どっちが少しでも自由か、どっちが少しでも休めるかと。
 私は生きていく中で、路上生活が一番つらい環境だと思っていた。よく分からないけど、どんな施設でも雨風がしのげるだけマシだと、そう思いこんでいた。生活保護が通らなかった時の不安をおびえながらカウンセラーに相談した時、カウンセラーがきっぱりと「あなたを一人で道端に放り投げたりしない」と言ってくれた。この言葉が、当時を乗り切る一番の支えになっていた。何度も一人でこの言葉にすがった。でも・・・あるじゃん。もっと生き難い環境が。っていうか、私が生活していた閉鎖病棟だって、よくよく考えれば本当に路上生活よりマシだったのだろうか?
 私は、この部分だけは当時知らなくて助かったと思った。知っていたら、もっとパニックに陥っていたかもしれない。知らぬが仏だった。でも今は苦しくても知ることができた。というか、知ってしまった。
 自分の未来のためにも、私には何ができるかな。

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今、私たちに求められているもの ー感じること・繋がること・そして自ら行動することー

町田・トマトハウス 飯島 空見子

 「障害者自立支援法案」改善運動の中間まとめと新たな展開をめざす〔緊急フォーラム日本障害者協議会主催〕に参加して

 8月8日(月)郵政法案の参議院本会議での否決による衆議院解散に伴って、「障害者自立支援法案」が廃案となりました。
 そして、その2日後の8月10日(水)、ニッショーホール(虎ノ門)で行なわれた緊急フォーラムには、会場を埋め尽くすおおよそ800名の人たちが集まりました。トマトハウスからは、メンバー・スタッフ5人で参加しました。
シンポジウムでは、フロアーからの発言が活発に行なわれ、限られた時間内では、ひとりひとりの人たちの発言を十分に聞くことができなかったことが残念でした。が、その中から特に印象に残ったことを記します。

○<高次機能障害>をもつ子供の母
 障害を認められていない、医療制度や社会保障制度の谷間におかれている『障害者』の存在を知って欲しい。支援が必要であることは同じなのに、高次機能障害は、各種の福祉サービスを受ける根拠となる、障害手帳をもてない人が多いのが現実である。今までは、手帳がなくてもサービスを受ける事ができたが、今後はどうなるか分からず不安である。
 
全国で、『精神障害』と言われる人たちは、259万人いて、そのうち障害者手帳を取得している人は31万人と約10人に一人の割合です。(04.3現在厚生労働省調べ)一方で障害手帳という物が重くのしかかっている現状があり、また他方では(精神障害の人にとっては、)障害者手帳が邪魔にはならない程度のものでしかない。この状況をどのように考えたらいいのかと複雑な思いに駆られました。

○<埼玉県・男性>
 所得保障と医療・福祉の応益(定率)負担は、別々に考えるべきだと思う。心臓が悪く、手術を繰り返している。1回の心臓手術には、300~400万円かかる。心臓が健康な人は、手術をする必要がない。生きていくために必要なことに対して何故、自己負担を強いられなければならないのか。自分は心臓に爆弾を抱えているのと同じ。国会にこのまま自爆テロを起こしたいほどの憤りを感じている。
私は、所得保障と応益負担は別々に考えるべきというこの男性の意見を聞いて、それまで、「お金を出すのが嫌だといっているのではない。お金がないのにどうやって1割負担ができるのか。先ず所得保障をきちんとして欲しい。」という言い方をしてきたが、それが間違いだと解りました。

今回、参加していたメンバーが、この人は、トマトハウスで一番若く利用期間も半年と一番短い人なのですが「フォーラムの終わりに質疑応答の時間があった。参加障害者の切羽詰った思いを聞いて、ここは日本ではない感じを受けた。」と感想を述べていたことも印象的でした。
私たちは、自分の身の回りのこと、目先のことにどうしても関心が向いてしまいがちです。誰もが病気や病気による障害を経験する可能性を持っているにもかかわらず、病気や障害を持っている人たちの状況を、他人事のようにしか感じられないのが正直なところです。また、障害をもつ人と健康な人では、障害に対しての感じ方、実感の持ち方も違います。だから、想いや気持ちなどは伝わりにくいのが現状です。様々な状況に置かれている人を、自分のこととして感じ、考えられるようになったら、もっと力強い運動が展開できると思います。
 「障害者自立支援法案」について、この間、トマトハウスのメンバー・スタッフと一緒に考え行動してきました。福祉を取り巻く状況が今までになく、危機的状況であるということを痛感しています。そして、めまぐるしく変わっていく情勢の中で『障害者』が自分で選ぶこと(選ばないこと)・自分で決めること・自分で責任をもつことを保障していくこと、その人自身の人生であるということ地域で当たり前に暮らしていくことを保障していきたいという基本的な姿勢は変わらずに持ち続けていきたいと思いました。
今後も様々な状況に置かれている仲間たちと繋がり、そして考え、行動していこうと思います。

追記
このフォーラムの時点では、参加者の誰もが総選挙の行方を気にしていました。選挙結果を受けて「障害者自立支援法案」も加速度的にすすめられていくのでしょう。これからは、<福祉>の時代ではなく、<治安>と<戦争>の時代になっていくのではないかとフロア-で誰かが言っていました。それを聞いて妙に納得してしまいました。

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講座「ホームレス問題とは何か」ご案内

NPO法人 自立生活サポートセンター・もやいpresents 第一回もやい特別講座

「ホームレス問題とは何か?」

【日時】2005年10月2日(日)9:20a.m.~5:00p.m.
【場所】東京ボランティアセンターA会議室(飯田橋セントラルプラザ10F)
【講師】稲葉剛(もやい理事長)/山口かおり(当事者)/宇都宮健児(弁護士)/山本志都(弁護士)/湯浅誠(もやい事務局長)
【参加費】一般8,500円/学生5,000円(先着50名)
【申込先】03-3266-5744(火曜11:00~21:00。FAX兼用)、info@moyai.net

 身近で縁遠いホームレス問題。何が問題なのか?どう対処すればいいのか?私たちに何ができるのか?――「ホームレス」問題の<すべて>をお伝えします。

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