連載第3回「当事者職員」として働いてみて‥その後
久保田公子
○「壁」にぶつかり限界を受けとめること
「当事者職員」として最もつらかったのは、時折利用者から「軽んじられている」「頼りなく思われている」と感じることだった(もちろんすべての利用者からではない)。また時には「こんなことを言ったら疲れさせてしまうのではないか、傷つけてしまうのではないか」といった善意の気づかいも、まっすぐには受けとれない気持が伴った。さらには「あの人は薬を飲んでいるから……」という声を耳にしたり、「久保田さんはうつだし、接すると気持が暗くなるから担当を変えてほしい」と言われたこともあり、何とも言いがたい気持ちになった。身をもって差別の体験をし、だからこそ一人の人間として見てほしいと願っているはずの利用者から逆にこのような差別のまなざしを受けたことは、つらく悲しい体験だった(これらのことは、社会的差別にさらされる人たちの多くがある時期抱えざるを得ない「内なる差別」の反映であると思うのだが)。そしてそれは、私にとって「精神障害者であること」に対しての初めての被差別体験だった。
だがこの体験は、今まで抱え続けてきた課題の答えを得るための大きな契機になった。20代に精神病院のケースワーカーとして働こうとした時からずっと考え続けてきた「患者さんの立場に立つ」こととは、「健常者」でありカギを持つ職員であり「専門職」と言われる者にとってどういうことなのか。また、「支援される側」からどう学び、平たい関係をもち、生き合えるのか‥‥。
私は社会に出てから不眠に悩むことが多くなり、知り合いの医師から眠剤を出してもらったり、作業所の職員を辞める1年位前からはエネルギーを使い果たして疲れきり、後から思えば「病んだ状態」にあった。しかし私は、一般的な意味で「患者」として医師に診てもらうことはなく、友人たちも極度の疲れとして受けとめてくれていた。だがこのように当事者と同じような「病んだ状態」を体験したとしても、通院・服薬する病者であることを自ら明らかにしたり、知られることによって周囲からの差別のまなざしを受ける体験をしない限り「当事者との壁」を壊すことには限界があるのだと思う。この「壁」にぶつかり、向き合い、限界を受けとめることから相手を尊重し、共感したり悩んだりしながらのかかわり、平たい関係での支援の一歩が始まるのではないだろうか。そして「距離をもつこと」は「巻き込まれないために」ではなく、人と人はそうたやすくは分かり合えないという限界(=壁)をわきまえ、相手を尊重し分かろうとするためにこそ必要なことだと思える。(今年上映された井筒監督の映画で、在日朝鮮人と日本人とが歴史的差別=「壁」をのりこえてŒq(‚‚È)繋がり合っていくありようを描いた「パッチギ」を観た方は、きっと同じ想いを抱くことだろう。私はこの映画を観て感動のあまり涙が止まらなかった。そして今まで考えてきたこととつながり、この文を書いてみようと思うきっかけにもなった。)
○当事者職員の立つ位置、いることの意味
私はこれまでの仕事の中で「当事者主体」あるいは「当事者の立場に立った」かかわりや運営を手探りしながら考え実践してきたつもりである。しかし、医療・福祉の中で当事者は治療・援助・支援の「対象」としてしかみられない社会的・歴史的背景がある中で、また「健常者」であった私には限界があった。そして私の場合は、病いと被差別体験をすることでその「壁」を壊すことにつながった。だからといって誰もが病いを経験しなければならないということでは勿論ない。人は幸いに想像力をもっており、さらに人は社会の中で、その人を取り巻く状況の中で、また人や場との出会いの中で生きており、それらを通して相互に影響し合いながら変わっていく存在だと思うからである。
さてある時、ピアサポートセンター設立に当たっての文書の中で、加藤真規子氏が『「当事者主体」と言っても、これまでは、健常者の手中の範囲内のものでしかなかった』という主旨を書いているのが目にとまった。「なるほどそうだなあ」と考えさせられた。10年くらい前から当事者の力が注目され始め、従事者からまた行政の側からも「当事者主体」ということが言われてきた。そして「当事者活動の育成」ということも。これは、なんと自分たちの立場をはきちがえた言い方だろうか。今必要なのは、当事者の側から、当事者の視点をもって「当事者主体」の中身・支援のあり方を改めて見直し、作っていくことではないかと思う(私は自分の立場だったらどう感じるか、自分が利用したいと思えるような場であるかに、より敏感になった)。私は、当事者職員として、さらには精神保健福祉士という「資格」をもってしまった者としても考え続けていきたい。利用者からの問いかけや批判にも向き合うことを恐れずに。また、当事者の中にもある社会的差別を自らの内に取り込んでしまったがゆえの当事者職員への差別や専門家に頼る傾向、『「健常者職員」はいつも元気なはず』という思い込みもある中で「健常者職員」とも一緒に考えていきたいと思う(現在の職場では、「当事者職員からの監視」と受けとめられてしまうのが残念でならない)。
ところで、昨年私はピアヘルパーが活躍している大阪のある生活支援センターを見学する機会があった。そこでは、ピア(対等・仲間)としての意味や役割が整理されており、「当事者職員」がいることの意味を職員間で共有できない状況に悩んでいた私としては、うらやましく感じられた。しかし同時に何か言語化できない違和感のようなものも感じていた。それがどこからくるものなのか、頂いてきた資料やそのセンターのピアヘルパーの活動について紹介しているある冊子を読みながら考えてみた。それによるとピアヘルパーをまず「病いを体験したことが最大限に活かされることに特徴がある」とし、「ピア同士が相互にエンパワメントするもの」と位置づけている。その上で既存のヘルパーの足りない所(対等性、ケア内容や場所・時間などの柔軟性)を「補完するもの」として、また「専門職の支援をより効果的に活かす」ものとしてとらえている。では、ピアヘルパーの方たちはどうかというと、「病気や障害にばかり目がいきがちですが、ピアヘルパーは、本人の個性や持ち味を伸ばすことも大切にしていますね。だから研修でも、精神障害や精神疾患の理解の前に、人間理解ということを学びました」、「専門職の人は、あたりまえに専門用語を使うんですけど、当事者にとってはわからない言葉があるんですね。だから、当事者がわかる言葉で説明しなおしたり、(中略)こんな支援も必要ですよね」と述べている。これらのことばは、「ピアヘルパーとして」というよりもむしろ「専門職」と言われる人たちにこそ学び、考えてほしいことでもある。実際、ピアヘルパーの特徴の一つとして「既存のホームヘルプサービスを、検証、補填、是正、改革するものであること」があげられているのだが、この「検証」「改革」という役割があまり視えてこないように感じるのである(限られた時間の見学、紙面の中でではあるが)。
私が抱いた違和感は、専門職による支援とピアによる支援が「役割分担」として整理され、さらには上記のように「専門職の支援をより効果的に活かす」ものとして位置づけられていること、また、コーディネーター(おそらくはいつも「健常者」「専門職」を想定している)の重要性として「ピアヘルパーの支援」があげられていることからくるものである。仮に「役割分担」という形があり得るとしても、「専門職」「健常者」と「当事者」のぶつかり合い・せめぎ合いがもっともっと必要だと思える。このピアヘルパーの活動は結局のところ、あくま
でも専門職が「仲間同士の生活支援の有効性を
実感」した中から生まれた「精神障害者のエンパワメントを目指した自立支援に関する事業」であり、そこからは「専門職」そのものを当事者の視点から見直すという姿勢はあまり感じられないように思えるのである。(つづく)
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