保護室を空っぽにする (2)―道立緑ヶ丘病院急性期病棟の試みー
東京精神医療人権センター 小林信子
4)回答から
質問に応じてくれたのは、病棟の看護師長から、若い看護師まで年代が幅広い看護スタッフで、「保護室空っぽ方針はよいことだと思う」と答えてくれた。S医師も強調するように、スタッフ間にもこの方針への支持に温度差があり一枚岩でないのも事実。でも、当日は質問者に向かってネガティブなコメントをする“勇気ある”スタッフはいなかった。
①なぜこの病棟に保護室を使わないようにするという発想が生まれてきたか。また現状やこの方針をどう思うか について
・考えて見れば保護室って変です。 病棟が閉鎖(これも変ですが)なのだから、二重に隔離するという不自然がある。不自然を早く解消しなければという意識を維持している。
・入院したならまず保護室を経由すること に疑問を持つことが必要ですね。
・保護室に入れられている患者さんは多く の場合人権が侵害されていると思うだろう。患者さんがどう思うかを常に考える。
・自傷他害以外は保護室を使わない。また保護室にいる患者さんとの間に、目的を設定した“契約”が出来れば一般室にすぐ戻している。
・ 特に構えてやっているわけではなく、ごく普通にやっていったらこうなった。
・保護室があればある程便利だから使うという危険性に気づくべきでしょう。
・8割は患者側の要因(比較的安静な患者が
多かった)、1割の看護努力、1割の運・・?
・S担当医は保護室使用が好きではない、使用しても出来るだけ短期間ということをスタッフの前で表明していた。そのことでスタッフ間でたくさん議論をしてきた。
・院内に《個室制限最小化委員会》が出来たが、この4病棟にはそれ以前から、その傾向はあった。
・昔、この病院であったすごく先駆的な活動を経験した看護師たちが、めぐりめぐって4病棟に配置され、保護室使用について疑問をもった。議論を重ねていくうちに医者が載せられたと言う感じかな(S医師)
・精神科の医療現場を席捲している“悲観論”による防衛的な姿勢を上位のスタッフがとれば、若手のやる気を摘んでしまう。
・病棟での議論をしていって、「取り返しのつかない失敗でなければ、失敗するかも知れないけれど、やってみよう」「失敗しても、その反省をすることで、患者もスタッフもお互いに学べる」という発想が多く出てきた。失敗するかも知れないから止めようではなく。
・実務的なこととして、病棟削減で保護室の数が不足するのではないかという危機感があった。それで、保護室の使い方を改めて考えることが出来た。
・前に病棟が閉鎖された時、患者を他の病棟に振り分けざるを得なかった。とても開放病棟では処遇できないと思った人が結構やっていたことで、「やってみなければわからない」のであれば「やってみる」という発想が出てきた。
・急性期の患者さんも自分の病気の情報は知りたいはず。保護室では情報を得られない。
②そのことによる業務量の増加や、付随するストレスが生じたか について
・業務量の増加などない。却って頻繁に保護室に向けていたエネルギーを、デイルームなどでの患者さん同士のやり取りの中でいろいろ観察できて有効だと思う。保護室では患者さんの本当の姿は分からないもの。
・急性期のスタッフが不足で、最初は不安
が先立つこともあったが、最近はそれがなくなった。
・「どうして保護室にはいってしまったの」と疑問を投げかけるスタッフが出てきたことがよかった。
③急性期病棟で、今のところ順調に進んでいる理由は何だと思うか?
・やはり帯広という地域での医療でしょうか。つまり、再発の場合でも、入院してもよくなればすぐに退院させてくれたという経験があるから、あまり精神医療に恐怖を持たず、入院に応ずる。すごく悪化して大暴れというケースが少ないのです。
・外来診療がよく機能していると思う。時間外入院も多くはないし、再入院の顔見知りの患者さんが多い。
・全く初発で、何の情報もない患者さんは医療者としても防衛的になるから、保護室を使うことはありますが(警察官移送で初発の患者さんには保護室を使うことが多いという)、そういう例が少ないのです。
・この病院は、この病棟から退院した人へ、看護師が訪問したりする。その人の生活などが分かっているから、入院してきても安心できる。
・夜間に不穏なことが起きれば他の病棟への応援をいつでも求められるという安心感がスタッフにある。実際はそうしたことはないが・・。
5)総括
十勝・帯広地域に人権侵害が存在しないということではない。強制入院させられる人はいる。
ただ、まず③の回答に見られる自然のキャッチメントエリアの存在に守られた精神医療が行われているということである。それは長い時間をかけて病院や地域のスタッフと、それらを支えてきた幅広い人々が作り上げてきた、多分、本来の意味でコミュニティを形成してきているのだ。この地域では、「安心して利用できる精神医療」が提供されているのだと思う。利用者は入院しても、入院一般に伴う不便さ以上の苦痛は少なかったし、早く退院させてもらえるという経験を得れば、具合が悪くなっても安心して外来に行けるし、入院をしてもよいという関係性が少なからず出来ているのだろう。見ず知らずの急患が少なければ、スタッフもそう防衛的にならなくてすむ。
2年前の体験入院時に、この地域においては医療と地域がお互いに影響しあう良いサイクルが出来ていると実感したが、それが反映して、保護室を出来るだけ使わないでも急性期病棟が維持できているのだと思う。
同時に、そこに働く人々の質の問題も避けては通れない。専門家としての倫理や人権教育はもちろん大事だが、それだけでは十分ではない。患者さんが人間扱いされている環境は、スタッフもそれなりに尊重されているという原則は不可欠である。その上で、医療者としての使命が生かされる環境、「失敗しそうだから止める」から「失敗してもいいからやってみる」という肯定的な発想が生み出されるのだろう。
公立病院は人手に恵まれているということの上に、確かに現在、看護スタッフの“潮回りがよく”、経験を積んだ人達が4病棟に集まっているという幸運もあるのかもしれない。しかし、それだけではない何か。
一つ分かることは、専門家としての力量を発揮できる環境があり、そこから職業人としての誇りが生まれてきているのではないか。医者や看護は保護室の番人ではない。
この対極にあるのが大都会、特に東京都の救急体制といえるだろう。コミュニティの存在する十勝と東京を比較するのは無理があるかもしれない。東京のことは別の機会に書くつもりだが、夜間の患者は一見さんで何の情報もない人が一晩に数多く運び込まれて来る。一瞬の問診の後の、“医者の判断”による拘束・点滴投薬・隔離室での収容。翌日は担当医の手を離れ後方病院への移送という流れ作業。こういう制度は医療者としての誇りを失わせてしまい、防衛的
な態度となるという悪循環を作り出しているのではないか。世界的に見ても大都市の精神医療が多くの困難を抱えていることは事実だが、制度の欠陥に意義申し立てをせず、「付け」をすべて患者の人権侵害に押し付けていることに専門家として恥じるところはないのだろうか。何から始めて、何をすべきなのか。緑ヶ丘病院の例をみて、専門家も、私達も何かヒントをつかめるのではないだろうか。
最後に、お忙しい中、お時間を下さった4病棟スタッフにこの場を借りてお礼を申し上げます。と同時に、再発する人が入院という形ではなく、地域でも急性期の危機を乗り越えられる、この十勝ならではのクライシスセンターがあればなあーと、ないものねだりをしながらお話を聞いていたのでした。
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