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韓国の当事者・医療関係者との交流から

福祉ショップわくわく 東谷 幸政

 今年の2月下旬に、福祉ショップわくわく(東京都稲城市)メンバー4名とスタッフ2名が韓国を訪問し、ソウル近郊の城南市(ソンナム)コミュニティメンタルヘルスセンターデイケアの当事者たちとの交流を行なった。3泊4日の短い旅であったが、メンバーのうち3名は初めての海外旅行。この旅のために毎月3千円ずつを2年近く積み立て、ハングル語を学び、日本と朝鮮半島との交流史を学んでの旅立ちだった。
 たまたま、センターと同じ運営母体である龍仁病院の運営するグループホームが空いていたため、韓国での1泊目は韓式旅館という、ビジネスホテル・ラブホテル兼用のオンドル旅館に泊まったが、2~3泊目はホームを無料貸し切りで利用させていただいた。3LDKの新築マンションを2棟。ちょうど6名での旅だったので、全員が個室で利用できた。広いマンションな割に浴槽がなく、シャワーのみという構造には驚いたが、韓国では珍しくないらしい。いたるところに公衆浴場があるため、困らないという。
 今回の旅のメンバーの一人は、稲城市のグループホーム・梨里の入居者でもある。現役の入居者が別のグループホームに泊まるという、珍しいケースで、しかも外国のホームである。みんなから、「日本人で初のケースかもしれない。」「日本のホームとの違いは?」「唯一のエキスパートだ」と言われて、満更でもなさそう。印象を聞くと…日本の世話人が、がっくりしそうだから、ここでは書くのは止めておこう。
 ホームは原則として利用期間は3ヶ月。集中的に関わるため、多少の延長はあっても、長期入所の必要はないという。LDK部分にあるインターネットは使い放題である。受け入れ先の配慮で、水やジュースなどの各種飲み物・冬だというのに高価な果物が豊富に用意されていた。新品のタオルや歯ブラシなども用意され、あまりに親切で細かな気配りに一同、感謝感激感動した。
 今回の旅の観光の目玉は中央高校。「冬ソナ」フアンの女性メンバーの希望を叶えるため、苦労して探し当て、冬休みで学生・教師がいないのをいいことに奥深く潜入し、校舎内の記念撮影に成功した。韓式ドラマの聖地であるこの高校が3・1抗日独立運動の活動拠点だったことはあまりにも世に知られていない。その他、水原城、景福宮、(ともに世界遺産)、民俗村などを観光し、水原女性会という女性団体の事務所を訪れ、交流した。この会の前代表である京畿大学保健センター所長・韓玉子さんが6年前にわくわくを訪問したのが日韓交流の始まり。通訳の鄭さんも会員である。
 当事者交流は、センターでの交流会、スーパーへ一緒にショッピング、鮮魚店での夕食会、翌朝の市場への買いだし、ロッテリアでの茶話会へと続いた。生まれて初めて「食用犬」も見たし、蚕のさなぎを炒めた、ポンテギという、むこうではポピュラーな「スナック」も試食できた。これらは、強烈に食文化の違いを印象付けられた「事件」だった。つぎは、是非そちらが日本へ来てほしいと要請し、再会を約束して別れた。

 7月27日、約束を守って、城南コミュニテイメンタルヘルスセンター所長、龍仁病院医師の高 永さんが来日した。たまたま、稲城のグループホーム梨里の入居者が数人まとまって退所したばかりで空いていたので、2月のお礼に日本のグループホームを3泊、宿泊体験してもらった。さっそく、初日は韓国を訪問したメンバーで歓迎会。翌日夜にはグループホーム梨里入居者と混じっての夕食会にも参加していただく。わくわくでの交流会はじめ、支援センターMEW、多摩総、にしの木クリニック、陽和病院と駆け足での見学や交流が続いた。桜ヶ丘記念病院夏祭りも見学。残念ながら強く希望しておられた、野宿者を支援している精神科医との体験交流は当方に情報がなく実現できなかった。そのかわり、野宿者を支援しているNPOもやいの代表者から、活動現況のレクチャーを受けることが出来た。高さんは昨年まで2年間、ソウル市の野宿者のメンタルケアの責任者だった。ソウル市が約束どおりの支援をしてくれないとして、昨年、辞職したのだが、野宿者支援システムを変えるために、極めて熱心に研究して行かれた。
 30日夜からは、長野県に移動して、地域通貨「湧湧」・自然農の学習と体験をされた。彼は8月から、オーストラリアで1年間、地域精神医療を学ぶために留学するのだが、もうひとつの目的はパーマネント・アグリカルチャーの12週間のプログラムに参加することである。持続可能な無農薬農業を基盤に共生の町創りをデザインすることを学習するのだが、彼自身、過疎の農村での障害をもつ人々との共生のコミュニテイの実現を夢見ている。韓国もソウルへの人口の一極集中で地方農村は過疎が深刻である。空いている小中学校の校舎は数多いらしく、活動拠点は手に入りやすいという。愛読書が福岡正信氏の自然農に関する著作だというのにも驚かされる。森山公夫氏が前から提唱しておられる、「新たな共生のコミュニテイ」創りのイメージに近いものを、韓国の農村で実践しようと、オーストラリア・日本で学ぼうとしている。その熱意・真剣さがこちらにも伝わり、触発される。山梨県長坂町での自然農の見学を終えた後、農家の三井さんに、来年、オーストラリアから帰ったら、1~2ヵ月住みこみで研修させてほしいと申込み、快く了承された。
 高さんの来日が決まったのが直近だったにも拘わらず、見学・交流にこころよく応じていただいた、各団体・個人の皆さんに深く感謝します。

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韓国:住民運動の現場で見つけたもの

野宿者運動見習い  吉田亜矢子

 私は野宿者(ホームレス)支援に関わり始めて約1年余り。現在は、野宿当事者による仕事おこしを目的にリサイクル事業や便利屋事業を行うアジア・ワーカーズ・ネットワーク―通称あうん―などに参加させて頂いています。(おりふれ3月号にあうん紹介文が掲載されています。)
 今年2月、韓国へ赴き住民運動の現場に触れる機会に恵まれました。かつてソウルの貧困地域ではいたる所で行政による再開発と強制撤去が行われ、撤去反対運動などが繰り広げられてきました。とりわけ私が滞在中お世話になったCONET(韓国住民運動研究院)というグループは、当事者の主体性や非当事者の関わりのあり方などに篤く、再開発・撤去の激しい時代には地域に入り込み住民の組織化を促し運動を行い、再開発の波がある程度落ち着いた今でも彼らの関わった地域では、住民たちが自らより暮らしよい地域を維持するため協同組合や住民自治会運営、子どもの教育の場作りなど様々な活動に取り組んでいます。渡韓の目的は、その地に蓄積されている、当事者による主体的で協力的な運動を育むノウハウを学んでくること。それが、私が関わるあうんなどの活動の場においても役に立つだろうということでした。
しかしまだ韓国を訪れて日も浅い頃、印象的な出来事がありました。ある時、ボランティアの方が貧困地域の人々に食料を配布するというチャリティ色の強い活動の現場を訪問し、後日、あれは住民を“ただ助けられるだけの弱くてかわいそうな人”にしてしまっているのではないか、あなたたちの言うスタイルと異なるのではないかと疑問を投げかけたのです。しかし、現地の活動家は「確かにあのやり方には問題がある。」とした後で私をこうたしなめました。「皆、活動の手法ばかりを考える。しかし、大切なのは手法ではなくてまず当事者との深い関係を築くこと。我々の活動は当事者の信頼を得るところから始まる。君は日本のフィールドで一体何人の野宿者を理解している?」―当たり前のようでつい忘れてしまいがちなこと。私は訪韓前から、「手法」を学んでくることばかりに囚われて、大切なことが見えなくなっていました。それをこの時まさに指摘されたのです。
 「関係」ということに着目してみると、様々なことが見えてきました。なるほどどの場面においても、活動家や支援者、住民リーダー、住民たちの間には、ごく自然に通じ合う暖かい空気が流れており、それがそれぞれの活動を根元から支えているように感じました。貧しさや、撤去によって住む場を追われるという過酷な経験を経たにもかかわらず生き生きした表情を見せ、自分自身の言葉で語る住民たち。それは決して、単に撤去に対する運動を闘い抜いたという自信からのみではなく、その過程で培われた他者との信頼関係の中で、自分たちの生活、自分たちの置かれている状況、自分たちが望むものなどを自ら捉え返し、分かち合ってきたからこそなのではないでしょうか。
 「深い関係を築く」そんな単純なことから、こんなに大きなエネルギーが生まれるなんて、ではそのために必要なことって何だろう、ただ親しくなればいいというのか―そのヒントをくれたのは滞在中の日常生活の中で出会ったごく普通の人々でした。行く先々で出会う人々の人間関係の作り方が、私が日本で経験するものとは何か異なっていました。例えばコンビニ―都市部で、しかも初めて訪れたにも関わらず店員が気さくに話しかけてきて世間話までしてしまう。たとえば路上で―人に道を尋ねればいつも、わかるまで説明してくれる、迷っている姿を見てわざわざ戻って来てもう一度教えてくれる、しまいには目的地まで連れて行ってくれる。こんなエピソードは数えたらきりがないほどありました。
 出会う人々は皆、何も警戒せず好奇心や好意、関心を惜しみなく表に出し、一歩も二歩も踏み込んで屈託なく接してきました。それは全く厚かましく感じず、むしろ暖かく心地よいくらいでした。日本でも昔はそうだったのかもしれないし、今でも地方や下町にはそんな人間関係があるのかもしれません。でも、私が日本で日常的に知っていたのは、コンビニ店員も路上の通行人も、場合によっては日々顔を合わせる友人などでさえも、相手に必要以上の関心は示さず一定の距離を保っている、そんな関係でした。自信がない、見くびられたくない、優
位に立ちたい、認められたい、上か下か、勝者なのか敗者なのか…そんな思いが背景にあるような気がします。でも、そこには本当の信頼関係ではなくて競合関係しか生まれない。私の関わる野宿者をはじめとする貧困者や被差別者、被抑圧者たちは、周囲の人々からの「自分よりだめな人間」「自分よりかわいそうな人間」という視線の中で、そんな人間関係のしわ寄せを食う最大の犠牲者になっているのかなとふと思いました。
 韓国に渡って学んだことは様々あるにせよ、やはり最も印象深かったのは人と人との関係性の部分でした。それが、まず活動の出発点であり、さらに追求し続けていくものである。それを教えてくれた現地のすべての人々に、大変感謝しています。

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キューバからの便り Nさんへ  No2

作業所勤務  宮城ゆみ子

 今回驚いたのは朝食に野菜が並んでいた事です。1年半前Nさんと来た時、野菜が食べたくてオーダーしても透けて見えそうなきゅうりと、3人じゃ喧嘩になりそうな量のトマトが出てくぐらいでしたよね。
 アメリカの経済制裁の続く中、今や年間2,000室の割で観光客用のホテルが増えているという観光立国をめざすキューバ。観光客のニーズに応えてということでしょうか。とにかくホテルの朝食にはキャベツとハム炒めや、生野菜が毎日有り、時々卵は切れていると断られましたが、全体に前回より充実したメニューでした。
 キューバ3日目にしてやっと落ち着き、待っているだろう友人へ電話。明日の夕食はリカルド宅でとなりました。
 キューバの夕食は8時過ぎくらいと遅いらしいのですが、私たちに合わせてくれて6時頃から始まりました。一緒に住んでいるリカルドのママと私達のために来てくれた、ジャクリーンのママと4人で食卓を囲み、キューバの代表的な料理コングリス(まめごはん)、トストーネス(青バナナのフライ)豚肉のソテー他、そしてなんと生野菜のサラダが並び、全くのキューバ語のお二人とアイコンタクト&笑顔だけが頼りの食事となりました。(狭いからか全員で食事をしない、部屋も別でしたよね)
 食後は近所の人も含め、あの甘くて濃いコーヒーをいただきながら、今後の予定が話題になり、チェ・ゲバラの遺骨が納められているサンタクララへ行きたいと話しました。
 ホテルのツーリスト・カウンターで聞くと、サンタクララ見学&トリニダ1泊ツアーになるということで、料金も結構します。路線バスは、あのキューバ映画「バスを待ちながら」を観た人はわかると想うのですが不安。と、そんな中、リカルドが車を持ってる友人がいるというので、値段の交渉など連絡してもらうと、明後日OKとの返事でした。自分達も行ってよいかとリカルドに聞かれ、一般のキューバ人はなかなか旅行などできないと聞き、長いドライブなので定員以内ならかまわない、と答えながら嫌な予感がチラッとよぎりました。

 4月4日 明日のサンタクララ行きに備え、キューバ3回目にして、やっと革命博物館へ行きました。スペイン・コロニアル様式のかなり立派な建物で革命に関する資料や武器が展示されています。1階にはゲバラのコーナーがあり、'67年ボリビア山中で銃殺されるまでの軌跡が展示されていました。中庭を抜け裏手の広場にはカストロ議長が反革命軍の船を沈めたという戦車があり、そしてバチスタ政権を倒すためカストロ、ゲバラをはじめとする82名の同志が乗り込みメキシコからキューバへ向った、あのヨット─グランマ号がガラス張りの建物の中に収められていました。ガラス越しのグランマ号は大事な役割を果たし今や静かに休んでいるように見えました。
 また'97年ゲバラの遺骨がキューバヘ帰った追悼式典のビデオが放映されています。その前で、くいいるように観ている子供達と一緒にBGMのHASTA SIENPRE (「さようなら」という訳でいいのかな?)を聴きながら、ちょっと真面目にキューバ革命を考える時を過ごしました。
 明日はいよいよサンタクララです。

 4月5日 朝6時半、ホテルの前にはやたら大きな'50年代アメリカ製のクラシックカーが。ちょっと嫌な予感。次々降りてきて朝の挨拶をかわす。リカルド夫妻と次男の3 歳になるアルバロ、甥のホセ、ダビッド夫妻そしてママ、チーノと呼ばれてる中国系キューバ人運転手、私たちを入れ総勢10人。車が大きいとは言え、どうみても定員はオーバーだ。文句も言えずギュウギュウ乗り込み出発。全開の窓から初夏のキューバといっても、早朝の冷たい風が吹き込む。どうも窓は閉らないらしい。
 ハバナからサンタクララまで車で3時間ほどという、道路は幅も広く真直ぐで、時間の早いせいか車はほとんど走ってなく、ギュウギュウ詰をのぞけば快適に飛ばしていました。30分も走ったでしょうか、「バァーン」という嘘のような大音響で車はよろよろと路肩に止まり、パンクでした。タイヤを見ると信じられないほど裂けていてTは「絶対重量オーバーが原因だ」と言っていました。スペアに取り替える間、非常時には滑走路となるという広い自動車道を寒さしのぎにみんなでマラソンをしていました。そんなアクシデントもあったけれど11時過ぎにはゲバラ廟の有る広場に到着。
 紺碧の空に銃を持ち前進するゲバラの像がそびえ建ち、それを囲むように革命戦士やゲバラの「別れの手紙」などのレリーフが並ぶ。みんなから離れ一人像を見上げながら「あーやっとこれたね」と独り言・・とその時ビデオカメラをポロリとコンクリートの床に落っことしてしまったのです。そんなわけでNさん、このサンタクララをお見せする事はできなくなってしまいました。気を取り直しこの像の下、半地下に有る納骨堂と博物館へ下ってゆき、係りの人の案内で納骨堂へ入る、薄暗い中、正面の壁中央にゲバラの顔が刻まれ、この奥に彼の遺骨が眠る。両側に同志38人の彫像が並んでいる。
 3歳のアルバロをはじめ誰も声を発せず静かに黙祷している。奥を見るとカストロが納骨の式典で点火したと言う「永遠の火」が暗闇を照らし燃えていました。出口に向い、最後に振り向くとリカルドのママが正面のゲバラの顔を愛し気になぜているのです。多分ゲバラと同世代のママは、革命そしてその後の苦しい時代を共に生きた同志なのでしょう。それを見て、ギュウギュウ詰定員オーバーにちょっとムッとしていた私達も許せてしまいました。
 その後はサンタクララ郊外の革命戦争中サンタクララ攻略のカギとなった列車襲撃の現場へ案内されました。今は巨大な尖った何本もの石柱がそびえ、その間に赤茶の本物の列車が散乱と言う感じに並び、トレイン博物館と説明されました。その石柱群を眺めながら昼食となったのですが、車のトランクの中は、彼等の自宅の食卓がそのまま運ばれてきたように、先日御馳走になったような食事がトランクの中のお鍋からお皿に盛られて出てきたのです。食後、やはりここまできたら、しばらく会っていない親戚に会って行きたいという、車の点検もした方がいいとも言う、もうこうなればなんでもどうぞ、車で半時間程走り、町の名前もわからない親戚の家へ着きました。 挨拶もそこそこに、疲れているだろうから休めと、半ば強引にベッドルームに案内される。有り難いのだけど、おしゃべり好きのキューバ人としては言葉のわからない私達は邪魔だったようでした。ベッドルームとはいえ板壁1枚では大声のおしゃべりは筒抜けで眠る事もできず、あたりを見回す。いつも感心するがキューバ人はきれい好きだ。建物は質素だが本当に工夫してきれいに使っている。見知らぬ人のベッドも清潔でキチンとしていて、気にならないのです。そっと抜け出して裏庭へ出ると納屋の軒にタマネギが吊るされ、並んだ鳥かごにカナリヤが飼われ、放し飼いの鶏がおり、生まれたての子犬が子供達に抱かれていました。ふとここはどこだろうと考えてしまいそうな、ハバナとは違うキューバがありました。この日ハバナへ戻ったのは深夜でした。またお便りします。

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投稿・作業所から

共同作業所Hot・Job利用者 大石正文

 私は非定型精神病である。アパートは東京の杉並区にあるのだが、今練馬区の共同作業所Hot・Jobに通所している。病院は練馬区のこころのクリニック石神井である。昨年か、陽和病院から別れて開設された。で、担当の先生は以前と変わらない。同じ先生で、もう担当になってから長く、私のことをすっかり分かっているので安心である。薬の出し方も良く、毎週の通院の時のインタビューで精神療法を兼ねたいろんな話をしてくれる。この先生が担当にならなければ、私は今のように比較的良い状態にならなかっただろう。
 Hot・Jobは、9年前にほっとすぺーす関町から別れる形で開所した。ほっとすぺーす関町は、故久良木幹雄さんがつくった作業所である。その前に久良木さんはほっとすぺーす練馬を開所していた。
 杉並西保健所デイケアに10年も通い、作業所をどうするかの段になった。杉並の作業所の話も出たが、私はイヤだと言った。すると、ほっとすぺーす関町開所の前日に、保健婦さんから関町の地図と一緒に案内が届いた。それでほっとすぺーす関町に通うことになったのだが、あの頃のことは懐かしい。所長だった、自身そううつ病の経験のある久良木さんの複合的で大きな人柄は、どこか慕いたくなるようなものだった。
 ほっとすぺーす関町にいた頃、私は調子が高くなると乱暴で過激なことを怒鳴ったりしていたが、今の担当の先生がそれを薬で治してしまった。それまでの先生は誰もそうしたことはしなかった。
 ほっとすぺーす関町では子供向け雑誌の付録の袋詰めとか、他の細かい手作業、カンつぶしなどをやった。午前中は班をつくって昼のための料理をつくった。それで昼ご飯はやすくて良いものが食べられた。
 「関町ニュース」という新聞のようなものも出していた。私も時々投稿したりした。その「関町ニュース」を発展させ、新聞発行や他の印刷のための作業所をつくろうということで、Hot・Jobがつくられた。 作業は、新聞Hot Timesの発行、それに名刺やビラの印刷を引き受けたりもする。他の作業所でニュースを出すのにHot・Jobに頼んだりすることもある。そうした時は、まずパソコンで打ち込み、編集をやる。パソコン勉強会も週2回ありボランティアが丁寧に教えてくれる。たいていの人はパソコンも大分上達している。私はワープロを少しやったが上達せず、パソコンは全くできない。しかし職員の人に無理にやらなくてもいいと言われている。
 私はHot・Jobに来て、初めてまともに近くなった。もう就労は無理だが、ずっとJobに通い続けようと思っている。何年か前私が入院した時、スタッフが見舞いに来てくれた。入院してもメンバーを見捨てない。退院し、作業所に戻って驚いたことがある。Hot・Jobの人達は、落ち着いていて穏やかな活力があり、実に具合がいいのである。精神科関係でもそれだけ良い悪いの状態の違いがある訳だが、具合の悪い人達でも、精神医学が発達してきており、薬もあるのだから、早く退院して作業所に通うなりの良い状態にすることができる筈である。要は、病院の医師のやる気の問題ではないか。
 就職して本当に社会復帰できる人は別だが、作業所は精神障害者の多くにとって、一種の理想社会と言うこともできる。ーマライゼーションということが言われて久しいが、その具体的有りようとして、作業所の果たすべき役割はますます大きなものになっていくと思う。

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東京精神医療人権センター・東京地業研の第2回病院訪問調査が始まります!ホームページarinomama.netもよろしく。

      東京精神医療人権センター・東京地業研 木村朋子

<これまでの『事情』>
 1999年から2000年にかけての第1回都内精神病院訪問調査と『東京精神病院事情95→98』の出版から5年が経ちました。個別精神病院の情報がオープンになり、利用者が情報をもとに病院を選択できるようになること、病院そのものが社会に知られ開かれたものになっていくことをめざしたもので『東京精神病院事情』としては、1989年以来4冊めのものでした。

<今回調査のアンケート>
 この春から2回目の訪問調査のために準備を始め、いよいよ9月から病院訪問が始まります。今回も、前回同様都内80の精神科単科病院に、予めアンケート(聞きたいこと)を郵送しておいて、3~4人の調査員で訪問。アンケート回答を確認、質問しつつ病棟を見学してくるという方法です。このアンケートですが、5年前は初めてのこともあり、各職種職員の年齢や病棟の築年数など、知りたいことを盛り込みすぎ総花的に過ぎたという反省があり、今回は次の二点に絞りました。①厚生労働省も方針化している社会的入院者の退院促進に病院としてどう取り組んでいるか ②院内の患者の権利の現状。二点目は、精神保健法施行から16年を経て、通信面会をはじめとする基本的権利が風化していないか(たとえば昨年人権センターの訪問の際、「面会は家族のみ」と入り口に張り紙をしていた病棟があったように)ということと、隔離・身体拘束という強い行動制限が、急性期の向精神薬などの点滴治療に伴って行われているということだが、その治療法についての病院ごとの考え方や実態はどうかということです。身体拘束について、このところ救急搬送や措置診察を含む急性期治療経験者から、縛られて苦しかった、屈辱的だったなどの相談が人権センターに続いて寄せられていることからの質問でもあります。

<調査員への研修>
 前回調査で、チームによって視点にばらつきがあったというのも反省点でした。そこで今回は事前研修を丁寧にする努力をしました。
 4・5・6月と連続講座として、院内患者の権利の現状を見る視点と最近の具体的問題、大阪の病院調査についてなど、東京と大阪の精神医療人権センター専従の小林信子さん、山本深雪さんに、そして長期在院が生じる背景、退院に向かう努力とそれを阻むものなどについて生田病院PSWの三橋良子さんに話してもらいました。講座番外編として今後、今年病院機能評価機構の評価を受けた駒木野病院事務長の神マチさんに、ビジネスとして成り立っている権威ある評価機構と対極にある、私達のような手弁当・草の根グループの外からの目に期待するものを話していただく予定もあります。
 7月には合宿し、2003年度東京都精神病院統計の読み合わせ、アンケートの最終的検討、それと具体的病院の院長役を決め、実際に訪問調査に行ったつもりのロールプレイというか予行演習を、これは8月にも2回にわたってやってみました。
 今回調査の調査員はこれら連続講座と予行演習に出た人とすると条件づけしたところ、地域で働いたりボランティアをしている人、前回より多くの当事者、病院で働くとりわけ若い人など、多くの新しい人々が集まってきたことも頼もしいことでした。

<ホームページ開設>
http://www.arinomama.net/ 
 ところで新しく参加した人達からの前回の本『事情』への批判、注文は、「記述が優等生風に過ぎてあきたらない」「入院してはいけない病院がはっきり分かるようにしてほしい」などでした。しかし訪問調査を受け入れたことをまず評価しようという
私達の基本姿勢、それと受け入れてくれた病院に対して事実の指摘はできても主観的悪口は書きづらい、名誉毀損の恐れもあるなどのことからなかなかむずかしい。そこでホームページを開き、生の体験談をメールで寄せてもらって掲載していこうということになりました。自費出版の本だけより調査結果(病院側のアピール含む)が広く知られることになり、病院にとっても調査協力の動機付けが高まるという期待もあります。
 しかし、私達もこのご時世なので必要に迫られホームページを利用することもありますが、本当は苦手だし、中高年の目にはキツい。そこへ無報酬でもつくってあげようという青年が救世主のように紹介され、トントン拍子に進んだのでした。この青年藤本さんと知り合って、私達のような主張はあるが能はない草の根グループに、技術と時間の提供で協力してくれようという若い力の存在を知ったのも、今回のうれしい発見の一つでした。

<調査の今後>
 調査は9月からですが、8月24日現在、多摩あおば、清瀬富士見、晴和、鶴川さくらの4病院の訪問が決まっています。断りの連絡は、老人病院なので対象外という理由で青梅慶友・聖パウロ病院、精神科医療の素人の訪問調査は断るという理由で成増厚生病院、この3病院からきています。前回80病院中35病院に訪問できたのですが、今回はどうなるか楽しみ、かつちょっと心配な今日この頃です。

<ホームページの最初の頁は下のようなものです。見てみてくださいね>

arinomamatop/topbar

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