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宅間被告の精神鑑定と鑑定医のメディアへの発言が精神科医と精神医学について語っていること

上野豪志(精神科医)


精神鑑定の内容公表をめぐる迷い
前回のおりふれ通信で木村さんが自由人権協会の「宅間被告人精神鑑定医のメディアへの発言と報道に関する提言」を紹介していた。今までわたしは、精神鑑定医が法廷で証言もし、精神鑑定書が裁判の成り行きにも大きく影響する内容だから、他のところで話さない理由はないのではないかと漠然と思う一方、精神鑑定の内容を他のところで話すのは場違いにも感じていた。まず、そのちぐはぐな感じを法廷とマスメディアの場を区別した自由人権協会の提言が納得させてくれた。
しかし、メディアには精神鑑定ではなくても精神科医の見解がよく出る。メディアが提供する精神科医の見方に人々は何を期待できるのだろうか。

精神鑑定が注目されるようになった
重大な犯罪に当たる行為は人々を不安にさせる。まして昨今話題になる少年たちの犯行の動機が分からない場合はなおさらである。宅間被告のように理不尽にも辛い人生を生きてきたので人生を終わりにしたいが、自分独りが悔しい思いを残して死ぬ無念を少しでも晴らすために理不尽に死ななければならない人間をなるべく沢山道連れにしたいという犯行の場合はどうであろうか。そのように追いつめられた気持ちを察しられないでもないが、通常は容易に受け入れ難い行動であろう。他人事と無視し切るのが難しい一方で、自分とは無縁のものとして納得し安心したい裏腹の気持ちが起こるのも自然である。
何が彼をそうさせたかと問い、社会評論家が出てきて彼を追いつめた社会状況を解説するのがお決まりの時代もあった。いつのころからか、誰もが社会的に追いつめられてきた所為か。精神科医が社会評論家に取って代わるようになった。健康な人間とは違って治療して治る病気で、その病気の故に自分や周囲の現実についての評価が歪曲され、非現実的な行動として犯罪に当たる行為がなされたとなると、その現実離れの度合いに応じて本人が問われる責任の重さが加減される。精神科医が行う鑑定の目的は犯罪に当たる行為の責任を本人に問えるか否かの判定で、行為の必然性を解明するものではない。
宅間被告は、精神鑑定で人間が備えるべき感情をもとから欠くなど治療をして治るものではない人格の障害があるとされて死刑が宣告された。精神鑑定で治療の対象となる病気ではないというのであれば、精神科医がそれ以上犯行について説明すべきことはないはずである。

精神医学の見方には問題がないのか
治療して治る見込みがないから病気とは言わないで、人格の障害という特別な種類の人間だと言う。ユング派のグッゲンビュール・クレイグは「魂の荒野」のなかで、精神病質といわれる人間が存在するという事実から目を背けず直視するよう主張している。人格障害の類型は精神医学理論の所産で社会関係を個人に押し込んだ仮象に過ぎない。種を明かせば司法制度や刑務施設の枠組みを無条件に受け入れた司法精神医学の経験に淵源するこの種の人間像は、近代刑法が前提にする社会関係を捨象した独立自存の人間モデルの欠陥を埋め合わせる辻褄合わせに案出されたものである。宅間被告に会ったことはないが、宅間被告は絶望しているように見える。自棄的である。ひどく苛立っている。怒り狂っている。かつて、人との関係を損なう攻撃的な言動を何とかできないかと精神科のクリニックを転々としたと言う、その自制できない攻撃性に依然として現在も苛まれているようである。
人間の行為の必然性をその内的な動機のみに求めるとすれば、宅間被告が自ら選んだ人生の決着は彼の気ままな選択の結果なのか。自分でつくった筋書き通り、理不尽に殺された子どもの親たちの恨みの声のなかで死刑を宣告されることだけが彼が手に入れられる自由ではなかったのか。これは彼の運命なのか。精神鑑定の見方は本人が敷いた自滅の道を全うするのに一役買っただけで、鑑定の見方もまた宅間被告と絶望をともにするばかりである。精神鑑定医も拘置所も宅間被告の激しい苛立ちさえ治療の対象として認知できない見方を共有している。

隔離・収容の時代の残りかす
宅間被告が自由な意志において行動したと見る精神鑑定はおかしい。おかしさは、この精神医学理論が本人の悩みや苦痛を解決するためにつくられたものではないことから来ている。従来の精神医学理論は、隔離・収容の時代の産物である。DSM-ⅣTRは脱施設化の時代の精神医学診断のはずである。しかし、DSM-ⅣTRの人格の障害という見方には隔離・収容のメンタリティの残りかすがある。それは人格障害がDSM第1軸の主訴を中心とした症状分類と異なり第2軸の人格の評価としての記述であることからも分かる。本人の人権を守るためには精神鑑定の目的を明確に意識することが重要である。精神鑑定による宅間被告の評価は精神医学理論による宅間被告の見方である。宅間被告の行為をその内的な動機に還元する見方である。精神鑑定は精神科医の無力さが宅間被告の人生の岐路を分けていないかとか、宅間被告がどのようにして自分の人生に絶望し自棄的な行動に駆り立てられたのかとかを明らかにする役には立たない。
プライバシー侵害に不用心な精神鑑定の内容の公表という早とちりは、なお脱施設化に遠い日本の精神科臨床に対応して、払拭しきれないままに残存し日本の精神医学自体に潜んでいる隔離・収容の時代のメンタリティに由来している。自由人権協会の批判的提言は精神科医がなおも引きずっているこの問題を気づかせてくれる。

 

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