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「殺してもいい命」などない~映画「半落ち」を観て

多摩あおば病院PSW 西隈 亜紀

 若年性アルツハイマー型痴呆の妻が、壊れていく自分に怯えて夫に「殺して」と懇願し、夫は妻の首を絞めた。夫は現職の警察官であり、殺した2日後に自首する。この2日間に何をしていたのか・・・。直木賞候補にもなった横山秀夫の小説を原作にした映画「半落ち」は、妻を殺した警察官が抱える“ある事情”を縦軸に、事件に関わる警察、検察、弁護士、裁判所、新聞社等の組織の硬直化やそれぞれの現場担当者の葛藤を横軸に絡ませながら、ヒューマンタッチに展開する。一応ミステリーなので、空白の2日間について私は一切触れない。私がここで書きたいと思ったのは、映画を観ながら警察官の“事情”にさんざん涙しつつも、共感しきれていない自分に気付いたからだ。この映画を、情に流され感動して観終わるのは簡単なことだが、精神医療従事者である私にとってはそれだけでは済まなかった。「痴呆だからといって、可哀想だからといって、殺してもいいのか」という思いが強く残ったのである。
 そうした意味から、私が映画の中で最も共感したのは裁判官であった。事件は嘱託殺人(依頼されて殺すこと)で、執行猶予がつくかどうかが量刑の焦点なのだが、裁判官は求刑通り懲役4年を言い渡した。執行猶予はなく刑務所に収監されるということである。「子供のことを覚えているうちに、せめて母親として死にたい」と叫ぶ妻を不憫に思う警察官の状況などが明らかとなる公判は、情状酌量があって当然の運びだったにもかかわらず、裁判官は厳しい判決を下した。彼自身もまたアルツハイマーの父を在宅で看ている身であった。裁判官は、「自らの手を汚して殺す優しさ」と「殺さない優しさ」の間で揺れ、「殺さない優しさ」こそが大切だと判決したのだ。
 
 「生きていていい命」と「生きていてはいけない命、殺していい命」があるのか。命に軽重が、価値の違いがあるのか。誰がそんなことを決められるのか。決められるはずがない――。これらのことは、私には、どうしてもゆずれない一線であった。
 私は、20歳代を新聞記者として働き、その間、安楽死や脳死・臓器移植、出生前診断の是非など、「命の選別」につながる事柄に関心を払い続けてきた。取材した多くの医療従事者や施設職員が、「現場は大変なんだ。きれいごとではすまない。あんたたちマスコミにそれがわかるか」といった怒りや、「家族が望んでいるから」という反応を示した。正しい答などない問題だが、私はそのたびに反発した。
 その後私は転職し、医療従事者となった。「現場」の側に来たということだが、私の思いは変わらない。例えば、賛否両論を承知の上で、今でも私は「脳死を人の死」とは思っていない。
 日々、心に病を抱える人々と接し、「死にたい。生きていても、なんにもいいことがない」という言葉を何度も耳にし、そして実際に自死を選んだ人々ももう何人も見てきてしまった。また、家族の苦しみも見聞きしている。誤解を恐れずに言うと、本当のところ、私も時々ふっと惑う瞬間がある。だが次の瞬間には惑いを打ち消す。「生きていてはいけない命などない」と、自らに強く言い聞かせるのだ。
 
 映画を観た後、原作の小説も読んでみた。“ある事情”が明らかになるところでやはり泣いてしまった。それでも、妻を殺してはいけないという私の一線はゆずれなかった。裁判官が警察官に問いかけた「介護保険制度を知っているか。奥さんを生かそうとは思わなかったのか」という言葉に、強く共感を覚えたのである。(※多摩あおば病院院内報に掲載したものを転載しました)

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