加藤みどりさんのお話
今年年頭の座談会で「今年はより一層、他の障害のことも一緒のこととして考えていきたい」と話し合ったものの、その後大した努力もしないまま過ごしていましたが、このところ私のすぐご近所に住んでおられる加藤みどりさんのお話を聞く機会を得ました。私がにしの木クリニックで働くとともに、暮らしている東京都立川市は、障害者福祉が比較的充実していることで知られる街でもあります。加藤みどりさんはその立川で24時間介護を受けながら暮らし、在宅障害者の暮らしを守る会の中心メンバーでもある人です。
加藤さんは山形県出身。17歳の時、突然2ヶ月もの間、原因不明の高熱におそわれ、意識が回復した時には寝たきり、失明の状態になってしまったそうです。17歳当時既にご両親は亡く、さぁ自分の人生独立独歩でどうやって生きていこうかと思った矢先の病気。意識が戻った時の病院での処遇はとても厳しいもので、身動きできない身に、看護師は「自分で起きて食事しなさい」。ベッドから転げ落ちていると「大丈夫?」との声かけはなく、「何でこんなことしてるの!?」。地獄だ、生きる希望を失い死にたいとばかり考えたといいます。視覚障害の寝たきりでは施設入所しかなく、重度心身の更生援護施設に入所。そこには脳性麻痺、脊損、知的障害との重複障害の人など、多様な障害の人がいて、でも皆明るく元気に感じられ、「私もやっぱり頑張らねば」と力を得たということです。一生懸命練習して寝たきりだったのが車いすに乗れるまでにはなった。しかし目標とした歩くことまでは進めなかったということでした。
1970年代前半、施設では、入所者は隔離され、外出も保護者が迎えに来ないと不可。手元にもてる金銭は電話代の10円玉何十枚かに限られ、面会も立ち会い付き。夕食は午後4時。居室は6~8人部屋でプライバシーは全くなし。この辺りは精神病院の話かと思うほどです。何よりも耐えられなかったのは二十歳前の女性にとって男性の指導員に入浴介助されることで、同世代のもう一人の女性とともに異性介護の入浴はボイコットすると園長に交渉し、ようやく寮母のみの入浴介護になった。しかしこういうことを勝ち取る一方で、施設とはこういうものでしかないという思い、ここでは個人が認められ生きていくことは不可能との思いが強まり、地域生活を志したとのこと。園長に「地域で暮らしたい」と言ったところ、「あなたが外へ出ることは社会の迷惑だし、あなた自身がみじめになることだ」と言われたことが「絶対出る」との原動力になったとのことでした。福祉事務所は出たいというのならしかたないと言ったものの、施設側は介護のボランティアを毎日24時間確保できないなら退所は認められないと言った由。施設の外の人に相談しないことには埒があかないと思い、手話サークルの指導にきていた人に相談し、ボランティアを募集したが、「なぜ待遇のいい施設を出たいのか」という反応が多く、候補者は2~3人しか集まらなかった。その場は名前をかき集めてやり過ごし、でも後に、外へ出てからの方がボランティアは集めやすいと悟ったという話しもなるほどと思いました。
こうしてすったもんだの末、施設入所から3年半、出ることを決めてから1年を経て、外へ出ると、「目が見えないと火が危ない」となかなかアパートが借りられない。やっと借りられたアパートはかまど馬(こおろぎの一種?)がぴょんぴょんはねるジメジメした部屋で、早く引っ越したくてたまらなかったということです。当時「全国公的介護保障要求者組合」という運動体があり、生活保護法の厚生大臣基準の他人介護加算要求の運動をしていました。その運動に山形から参加。新田さんという都立府中療育センターから地域に出た人が、東京都北区で初めて勝ち取ったことを皮切りに、東京都内では何人かの人が他人介護加算を得、加藤さんも米沢市に対してビラまき、押しかけなどあらゆる要求手段を駆使して、ようやく5年後に、当時月額54,000円の加算を手にすることができた由。ホッと一息ついてもこの金額では1日やっと4時間の介護分にしかならず、新聞配達をして生活を支えながら専従介護を担ってくれた人との出会いがありながらも、残る時間はやはり自分でボランティアを集めるしかないわけです。ボランティアは当然自分の都合のいい時しか協力してくれず責任のないもので、介護者の手配できない時間が続くと家族にも負担がかかり、追いつめられて一家心中にもなりかねない心理状態になる…と淡々と話されることに、自分の想像が及ばないものを感じました。しかもその中で子育て。ミルクを溶かすお湯の分量がわからないので、つくってもらって保温しておいたら保健所の人が来て、「つくりおきは雑菌が繁殖するからしてはいけない」と指導されたという話には、同じ子を持つ親としては泣きたい気持ちになり、従事者の画一的指導ということでは襟をただす感がします。そういうことの一方、障害者の在宅保障の会をつくり、住宅改造の問題や、ボランティア確保に不可欠な福祉電話を市に要求し1年後に認可された時は、障害者運動は自分のためでもあるが、それだけじゃなくすべての障害者のためのものだと確信したということでした。
しかし8年前、東京の仲間に誘われ、当時中学生だった娘さんの「お母さん、米沢では限界だよ」という言葉に促されて、24時間介護保障のある東京立川市に移ることになりました。24時間保障があっても、介護とは給料分を機械的にこなすことでは済まされない仕事、時間をかけてお互い相手のことがわかるようになっていく関係性が大切という言葉に、今はやりのシステム化・機能分化などの落とし穴をつくづく感じます。従事者の側がそれを強調することは抱え込みやパターナリズムである危険もはらみます。しかし加藤さんは今年4月の支援費制度導入に当たって、生活保護法では他法優先のため、24時間介護が支援費制度で保障される立川市では、支援費優先となって事業所から2級ヘルパーが派遣されてくることになり、無資格でも自分の気のあった介護者を頼める他人介護加算は不適用とされるという事態に猛反対。「あんなに苦労して、自分たちの求める制度として他人介護加算を勝ち取ったのにおかしい!」とあくまでも他人介護加算の継続を要求。この間、支援費での週3日の泊まり介護を受けないで我慢し、市と再三交渉して半年かけてやっと認めさせた。納得できないことはあきらめないでやってみることが大切、あきらめると後悔になるからとのことでした。この信念と、関係性が大事、知的障害、精神障害、荒れる子供など教育の問題…など物事ってつながってる。出発点が違っても目的は同じ。いろんな問題すべてには関われないが、おかしいことはおかしいって言っていかないと世の中変えられないという基本姿勢が、繰り返し語られたことでした。
今年1月の介護派遣時間上限撤廃闘争も、1月の「おりふれ」に「インフルエンザにかかっているかもしれない重度障害者の女性が命を賭けて抗議集会に参加しようとしている」とあったのは実は加藤さんのことでした。撤廃させなければ立川の24時間介護保障が後退するという死活問題でもありましたが、与えられたのではなく並大抵でない努力でやっと勝ち取った保障を、国の思いつきで簡単に変えさせることは絶対許せない。頭の中で考えているだけの役人は自分たちの現実を追求すると黙ってしまう。支援費は地域格差をなくす目的もあったはずなのに、今でも週8時間の介護しか認められていないとか、悲惨な地域もある。各地で声を出し大きな力にすれば、国は大きな力が恐いのだということ。上限撤廃は文字通り命がけで実現され、最近では私たちに力を与えてくれる快挙でしたが、たとえば立川市でも市の障害者福祉手当、年間7万円が今年から廃止され、厳しい状況は続々あるのに、障害者仲間の、とりわけ物心ついた時には既にある程度の保障があった若い世代の危機感が薄いことに危機感を感じている加藤さんです。いずこも同じ、世代を超えて伝えていくという課題がここにも、でした。
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