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「当事者職員」として働いてみて

久保田公子

 私は、共同作業所で八年間働き、さまざまな事情で疲れ果てて退職し、うつになった。

 ブランクを経て現在の職場である地域生活支援センターで「当事者職員」として働き始めてから一年半になった。このセンターの運営母体は、身体障害をもつ当事者の方たちが中心となって作り上げた団体であり、「当事者職員」が何人か働いており、私もその一人として採用された。私はちょうどうつが回復し始めた頃であり、病いになった経験を生かしながら、長年の私の課題であった利用者・当事者との平たい対等な関係づくり、あるいは「当事者主体」とか「される側に学ぶ」といった言葉で表現されるものの中身を、今までとはまた違った視点で考えていけるのではないかと思い働くことにした。

 十数年間、精神保健福祉の現場で支援する側として働いてきた私にとって、自らが病いを経験したことの意味は、いろんな面で大きかった。まず感じたことは、当事者との対等な関係づくりをめざしながらも、当事者との間に未だに壁のようなものを作っていたことに気づいたことだった。というのは、今から思えば退職する以前からすでにうつ状態になっていたのに、友人などから受診・服薬の勧めがありながらも、薬を飲み患者となることへの抵抗感があったからである(収容主義的で医療とは名ばかりの精神病院に勤めていた経験から、医療への不信感もあった)。そして限界にきてからようやく受診し、医師の言葉に納得し、うつを認めたことを通して、誰もが病いになることがあるのだということに本当の意味で気づかされたように思う。

 また、「当事者職員」として働くということは、全く新しい経験であり、得たものが多い。そのひとつは「健常者職員」であったときにはなかった双方向の関係を実感するときがあるということである。例えば、些細なことかもしれないが、利用者の人から「最近調子はどう?」と聞かれて自然に答えられたり、ときには自分の方から「最近疲れ気味」などと言うこともある。以前は、職員はいつも元気でまるで何の問題も抱えていないかのように思われ、またそう振る舞わざるを得なかったような気がする。さらに以前は、利用者に対して課題のようなものを把握しようとする姿勢が抜け切れなかったのだが、自分が病いになってからは、一緒に問題を考えるとともに、利用者が苦しみやつらさをどう乗り越え付き合ってきているのかを知り、学びたいと思うようになった。

 このように得るものを実感すると同時に、戸惑いと揺れの中で整理しきれないものも抱えてきた。とりわけ「当事者職員」という存在の意味合い、あるいは「当事者職員」と呼ばれる事の意味合いについては考えさせられることが多い。私は共同作業所で、当事者である上司のもとで働いたことも、またメンバーであった人に職員になってもらい共に働いてきた経験もあり、これらの貴重な経験とも重ね合わせながら、この未整理な事柄についてこの機に改めて考え、言葉にしてみたいと思う。

 「当事者職員」が雇われる意味や役割は、言うまでもないことかもしれないが、当事者の気持により寄り添いやすく、また当事者の視点に立った支援ができるということだろう。ただ当事者同士が互いの気持を全面的に理解できたり、当事者だからといって当事者の立場に立つことができるかといえば、必ずしもそうではないとも思う。私自身のことを考えてみてもなかなかそうはいかない(支援する側としての経歴の方がずっと長く、当事者としての経験が浅いということも影響していると思うのだが)。先に述べたように、壁は以前よりはずっと崩れたにしても、それぞれの人が置かれた状況や病いのありようは個別性を持っており、そう簡単に理解しうるものではない。さらにあえて付け加えると、利用者と対等な関係を築きたいと思っても「当事者職員だから」と軽んじられたり、静かにしているだけで具合が悪いと思われたりしてしまう悲しい現実もある(このことについては、当事者が日々さらされる社会的差別の現実として、また差別を内面化してしまうことの反映として受けとめている)。

 次に「当事者職員」と呼ばれることについてであるが、私は率直に言って違和感を持った。「当事者職員」であることは、当事者性を前面に出して働いていくことであり、「当事者であること」に立脚し、そこに自らの生き方としてのアイデンティティーをもって働いていくことだと思う。私の場合はどうかというと、私にとって病いは私が持っている「ひとつの要素」であると思っている。そしてその一つの要素である病いの体験を生かして仕事をしたいと思っているのだが、同時に私には他のいくつかの要素自らが依って立つものがある。「性差別を受ける側の女であること」「労働者であること」「精神保健福祉の従事者であること」など。こうしたいくつかの立場にたって私は生き、働きたいと思っているのである。

 こう考えると、その人を「当事者職員」と呼ぶかどうかは、その人自身がどのようなアイデンティティーを持って、どのような立場で働こうとしているかによるのであって、他者から、外側から名付けるものではないのではないだろうか。
 一年半経った現在、私の「当事者職員」としての立場は次第にあいまい化されているように感じられる。利用者からは「半分当事者だから」などと言われることもある。回復するにつれて当事者意識が希薄になってきているのも事実である。でもこのあいまいさが、私にとってはありのままの姿であるように感じている。

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